『シゴフミ』と人殺しのリアリティ

シゴフミ 一通目 [DVD]

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シゴフミ」視聴者の皆様へ
いつも「シゴフミ」を応援していただき誠にありがとうございます。
この度、「シゴフミ」第3話『トモダチ』に関しまして、昨今の社会情勢に配慮して内容を一部修正して放送する予定です。
視聴者の皆様には誠に申し訳ございませんが、予めご理解の程、何卒よろしくお願い申し上げます。

『シゴフミ』公式

以前から予告されていた通り、第3話ではあからさまな修正が加えられています。真っ黒でぜんぜんわからないのですが、銃か爆弾を持っているのでしょうか?

昔の特撮では幼稚園バスがしょっちゅう襲われていたのに最近は全然襲われないね、という話なら理解出来なくもないですが(納得はしない)、よりによって『シゴフミ』が自主規制とはなぁ、というのが率直な感想です。
そもそもこの作品では、人殺しは描いても「〜の影響で人を殺した」というような、単純でわかりやすい動機は決して描こうとしませんでした。第1話・第2話に登場した人殺しの少女には彼女なりの「人を殺す動機」があり、第3話に登場した自殺少年には彼なりの「自殺する動機」がある。しかし、他人である僕たちにとって、それは「理解したつもり」になること出来ても、「理解する」ことは出来ない。なぜなら、僕たちは彼らにとって他人だから――。ということが繰り返し描かれてきました。
そんな作品が「犯人はひぐらしの影響で家族を殺したんだ!」といわれるような「昨今の社会情勢に配慮して」自主規制しなければいけない、というのは実に皮肉なことだと思います……。


気を取り直して、作品の内容について触れていきましょう。
先に述べたように、この作品では「動機なんてわからない」という感覚を得ることが目的となります。ある意味、この物語は何も言っていないに等しくて、視聴者を突き放すこと自体が作品の核として存在している、という風に僕は考えます。
しかし、この『シゴフミ』が物語として成立しているという事実は逆に、僕たちが「動機」というフィクションから完全に自由にはなれないのだということを示しているのだ、と言うことも出来るでしょう。突き放されるためには、求めなくてはいけない。振り子のような、あるいはシーソーのようなリアリティのバランスの中でこの物語は成立しているのです。

テレビの向こう側は常に別の世界として存在し、電車が目の前を通り過ぎるときのゾクゾクする感覚をその世界へ持って行くことは出来ません。そこに経験的なリアリティとのズレが生じるのでしょう。


さて、この作品の独自性についてですが、90年代以降の小説、特に高村薫森博嗣のようなミステリィ出身作家の作品には同じような構造を持ったものが割と多く見られるので、決して目新しいというわけではありません。
例えば森博嗣。犯人の動機を一切描かない、あるいは最初から理解不能なものとして書くことの多い作家ですが、そのことについて瀬名秀明が文庫版『すべてがFになる』の解説で非常に的確な指摘を行っていますので、一部引用します。

私たちは小説を読むとき、無意識のうちにわかりやすい理屈を求めようとする。これは森自身が私に語ってくれた例だが、私たちは殺人者が登場する物語を読むとき、その者が過去に残酷な仕打ちを受けたために殺人の心が芽生えたなどという「お約束」を無意識のうちに求めてしまう。そしてそれが作品中に書いてあれば安心し、逆にそのようなエクスキューズがなければ落ち着かなくなる。従来の小説作法では、このようなエクスキューズをうまく作品内で展開することが優れた小説の条件であり、また「人間を描くこと」だとされてきた。これは一見もっともらしいが、よく考えてみると、読者の健全な思考を封じる非常に非論理的な手法なのである。発生した事象の原因を画一的な枠で封じ、それによって全てを理解した気分にさせ、異なった思考を停止させる、恐ろしく情緒的なやり方なのだ。森博嗣の作品はこのような「お約束」に決して囚われることがない。
だが、森博嗣の真の凄さはここから先にある。森の作品では、極めて興味深いことに、認識やリアリティを問われるのは作中の名探偵ではなく私たち読者のほうなのだ。つまり読者がそれまで抱いてきたリアリティという名の幻想こそが、物語の謎を生み出す基盤になっているのである。

森博嗣の場合、動機がわからないのが当然、わかると思う方がおかしい、という立場を取ります。また、外部からは矛盾して見えたり、自分自身にも上手く説明できなかったりする複雑な感情も、人間とはそういうものであるとして肯定も否定もしません。
シゴフミ』の場合はどうでしょうか。主人公のフミカは死者からの手紙「シゴフミ」を配達すること以外に興味を持たず、その邪魔をするものには銃を突きつけることも躊躇しません。

「僕の仕事はシゴフミを届けること。邪魔をするな……!」

こうして見る限りでは、フミカは善悪や好悪、正邪を超越した存在として描かれているように見る。けれども、実はそうでもない。正常な人間、正常な思考、正常な動機が存在するという視点をこの作品は捨ててはいないのです。
例えば第3話の前半で、フミカは今まさにヤクザに殴られている男を見つけ、その男にシゴフミを渡します。フミカはその男を助けず、代わりにこう言うのです。

「自業自得」

同じく第3話中盤の会話から。

「まったく、何で自殺とかしちゃうかな人間は。生存本能はどうしたの。これってさ、生命の冒涜ってやつじゃない?」
「壊れてるから」
「え?」
「人間は壊れてる。自殺、近親相姦、親殺し。こんなにエラーの多い生き物は人間だけ」

「人間は壊れてる」。このような認識に立つとき、『シゴフミ』という物語の屈折した部分も見えてきます。
親を殺した少女を、フミカはエラーだと思ったのか。
なんとなく自殺した少年に対して、フミカは生命の冒涜だと考えたのか。
うーん。『シゴフミ』に対してあれこれ書くのは、まだ早かったのかもしれません。今後の展開に注目です。