アニメを見るときの「自然な態度」について

僕たちが作品(特にアニメ)を鑑賞するとき、あるいは作るとき、無意識に取る「自然な態度」というものが存在します。
例えば、作品内で起こる出来事には全て理由があると考えること。キャラクタの顔や性格は変化しないと考えること。画面は風景や人で満たされているのが当然だと考えること。他にも挙げられるでしょうが、とにかくそういった「自然な態度」が存在するわけです。
しかし、そんな態度は捨ててしまえ、とは言わないけれど、とりあえず括弧にいれて保留にしておこう、と考える人が出てくるのも自然なことでしょう。
近年のシャフトの作品群(ef、絶望先生など)には明らかにそのような傾向があります。必要がない、と判断したら、たとえそれによって視聴者が違和感を感じるとしても、あえて描こうとはしない。逆に、必要だと思ったらいくらでも過剰に描く。『少女革命ウテナ』にも同じような傾向があり、ある種の価値転換として僕はこれを好意的に捉えているのですが、異論があるのも当然。
また、「自然な態度」を括弧に入れることそれ自体を作品の構成要素として組み込もうとする動きも見られます。例えば『シゴフミ』の第3話である少年が自殺しますが、物語を動かしていく原動力は「なぜ少年は自殺したのか」という物語の中に描くことの出来る内容ではなく、「自殺したのは何か理由があるはずだ」と考える視聴者の自然な態度です。別の見方をすれば、作品の内容は作品の中に存在せず、読者の意識の中にだけ存在すると言えるでしょう。


でもまあ、こうやって価値転換を評価したり違和感を感じたりというのは、頭の中に「アニメとはかくあるべき!」みたいな考えがあるからこそ出来るのであって、最初からたいした考えも持っていない人の考えをひっくり返したってどうしようもないわけです。アニメの影響を受けやすい人、予備知識無しで見る人が一番アニメを楽しめているかといえば、そうでもない。というか、そう思っていなければ批評なんて最初からやらないですよ、と余計なことを書いてみる。