『ひぐらしのなく頃に解』−「犯人の心情を理解すること」の欺瞞

ひぐらしのなく頃に解 捜査録 -紡- file.01〈通常版〉 [DVD]
毎年1人が死に、1人が消える「雛見沢連続怪死事件」。萌えと謎とホラーが入り混じった問題編が4つと、それらをバラバラのかけらに戻し、望ましい姿に組み直す解答編が4つ。物語は先日の放送でいよいよ解答編のラスト「祭囃し編」へと突入しました。
物語の謎と悲劇を全て清算し、長い長い物語に「オチ」をつける重要な部分です。ただ、僕が『ひぐらしのなく頃に』という物語の中で一番くだらないと思っているのも、やっぱり「祭囃し編」なんですよ。
祭囃し編」は物語において主要な謎である「雛見沢連続怪死事件」における「犯人」の幼年時代の描写から始まります。アニメ版で先日放送されたのがそれなんですけど、原作でも同じように思ったのですが、ここが単に蛇足であるというだけでなく、作品全体の完成度を著しく下げているように思えてなりません。
「犯人」の生い立ちを描いていく、というのは、例えばトマス・ハリスの『レッド・ドラゴン』などでも見られるように、ミステリィでは全然珍しいことではありません(『ひぐらし』がミステリィかどうかは微妙ですが)。でも、それは「犯人」の心情を「わかったつもり」にさせる反面、人間的な魅力を損なうことが多い、と僕は感じています。先ほど例として挙げたトマス・ハリスにしても、彼の生み出した最高の悪役・レクター博士の魅力は、初期の『レッド・ドラゴン』『羊たちの沈黙』で感じられた怪物的なそれが、レクター博士の回想シーンが増えてくる『ハンニバル』、生い立ちを描いた『ハンニバル・ライジング』ではほとんど感じられなくなっています。過去と現在の因果関係をはっきりさせると、どうしても平凡さが際立ってしまうのです。


凶悪な事件を起こした「犯人」は、実は過去にこんな悲惨な出来事が。それならこういう事件を起こすのも納得できる。そして「犯人」も救われるハッピー・エンドへ。
2時間ドラマでもありがちすぎて嫌になる筋書きですが、このような筋書きに持っていこうとするのも、一応理解出来なくはありません。ただ、僕はそれが、凶悪犯の卒業文集を晒したり、同級生にインタビューをしたりするマスコミの報道と同じベクトルを向いているように思えます。結局は魔女狩りのように、「犯人」を作った「犯人」がいないと安心出来ないのですか、と。
リアリティという観点からも面白くありません。テレビや新聞の報道では、犯人が犯行に至った動機が述べられているのを普通に見聞きしますが、それを鵜呑みにする必要は全くありません。人間の心理は「かっとなって」「お金が欲しくて」「嫉妬して」などのようなわかりやすい言葉で表せるほど単純ではなく、言葉にした時点で歪んでしまうものです。また絶えず変化し続けるものなのであり、常にある程度の割り切れなさを残すのがリアリティであると僕は考えます。解答編では「目明し編」がその点良かったですね……。解答編では唯一好きな話。
ただ、割り切れなさを解消し、安心して物語を終えたい、という心情は理解できます。でも、完全に安心してしまってはリアリティを損なうだけでなく、問題意識がボケてしまうのです。「祭囃し編」だけでなく、そのひとつ前の「皆殺し編」でもそれは同じ。
皆殺し編」では「狂信的な村の結束も、見方によっては良いところもあるよ」と、それまでの話も含めて物語の舞台である雛見沢村の性質を功罪含めて描き出すことでバランスを取ろうとしています。しかし、単に「功」と「罪」を併記しただけで思考停止しているんじゃないか、とも言えるわけで。功罪切り離せないと認めた上で、ではどうするべきかと考えるのが倫理的な態度でしょう。


以前、『ひぐらしのなく頃に解』が現実の事件の影響を受けて放送を自粛した際には、この作品を擁護する記事を書きました。
『School Days』『ひぐらしのなく頃に解』の自主規制に関して−日本人に芸術の自立性は理解できない? - tukinohaの絶対ブログ領域
ただ、ここで改めて強調しておきたいのですが、僕が『ひぐらし』を擁護したのはそれが倫理的だからでは決してありません。少なくとも「皆殺し編」や「祭囃し編」を見て、「ひぐらしは倫理的な作品だから放送中止するのはおかしい!」という論調には同意しかねます。