最近の『みなみけ』に関して−カットの繋がりが生み出すドラマ性

みなみけ 1 (期間限定版) [DVD]

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みなみけ』面白いですね。ただ、会話の面白さがその多くを占めているだけに、記事を書く側としては、ちょっと困る作品でもあります。

突然リアルになる表情、あるいは極端にパースペクティブを強調した構図。このブログのようにキャプチャ画像を中心に記事を組み立てると、そんなケレン味のある演出を取り上げたくなります。
ただ、それが『みなみけ』という作品の本質を捉えているかといえば、ちょっと違う気がする。ショーペンハウアーが言うように「笑いの根源はつねにパラドクス」であり、いくつも折り重なった現実が互いに矛盾をきたすことによって生じるものである、と僕は思います。

例えば第11話、千秋はダンプから落ちた小石を見て、それを蹴りながら家に帰ることを思いつきます。ダンプに書かれていた社名から名前をとって、その小石を「山田」と命名。

徐々に「山田」に感情移入する千秋。ところが、家まであと少し、という所で「山田」を夏奈に蹴り飛ばされて見失ってしまいます。

「お前のせいだよバカ野郎」
「ええっ!?なんでだよ!」

山田がいなくなってしまった〜、と言っても、もちろん夏奈には何のことだかわかりません。夏奈が想定した「山田=人間」とその実態の矛盾、そして僕たちが持つ「小石=つまらないもの」に反してそれが情感たっぷりに描かれるという矛盾、この2重の矛盾は『みなみけ』の笑いとして典型的なものであると言えるでしょう。
重要なのはそれぞれのカットが固有のものとして持っている意味ではなく、むしろ、その固有の意味が別のカットとの関連によって変化するところではないかと思います。



同じく第11話のラスト近く、鼻血を出しながら机に突っ伏すナツキ。ここに至るまでに会話、やりとりが面白いのはもちろんですが、そこからエンディングに繋げていくやり方がちょっと変わっています。

場面が変わって、もうひとつの南家へ。ですが、キャラクタの動きは一致しています。場面転換を滑らかにするだけでなく、一致していない部分(つまり周囲の状況)のギャップに目を向けさせる演出だと考えられます。決して派手ではありませんが、面白さがじわじわ湧いてくる感じ。
同じ時間に違った場所で起きている出来事を交互に見せる手法を「クロス・カット」と呼びますが、たとえその出来事自体は平凡であっても、クロス・カットを用いて他の出来事との対比あるいは関連を示すことでドラマ性を高めていくことが出来るのです。
クロス・カットが使用された別の例として、第9話『三姉妹日和』の前半が挙げられるでしょう。南家の三姉妹が別々の場所で過ごす半日の風景が描かれているのですが、タイトルの通りその半日を『三姉妹』の時間として描くため、それぞれの場面を強く結び付けています。

教室で勉強しながら「今頃、春香姉さまはのんびり休んでいることだろう」と考える千秋。視線が陽の差し込む窓へと向かったところで、場面はその春香のいる南家へ移ります。

窓から差し込む光で本を読む春香。千秋の視線に合わせてカットが繋がれているようで、自然な流れに感じられます。そして「お菓子でも作ろうかな」と春香が言ったところで、場面は夏奈のいる学校へ。

手の動きを一致させる繋げ方。両者の考えていることもよく似ています。
この後は以上で挙げたような関連性のある繋げ方ではなくなっていくのですが、それに合わせるように三姉妹がみんなバラバラのことを考え始めます。


というわけで、いくつか例を挙げながら『みなみけ』の笑いについて考えてみたわけですが、正直に言えば今回の記事には全然自信がないのでご意見ご感想を聞かせていただければ幸いです……。ギャグアニメなんて嫌いだ(見るのは好き)。