考察・クリムトとエルフェンリート

「悲しい思いをたくさんさせてしまって、ごめんなさい」

岩波から出ている、グスタフ・クリムトの画集を見ました。
その画風を一言でいえば、生と死の狭間でダンスを踊る、黄金のドレスを身に着けた貴婦人といったところでしょうか。古典的モチーフにアール・ヌーヴォーの要素を取り入れ、独自の官能的な世界を作り上げた画家です。好きな画家です、とても。
僕がこの画家を知ったのは、アニメ版『エルフェンリート』のOP・ED映像でクリムトの『接吻』や『ダナエ』の構図が利用されていたからなのですが、あらためて画集を見てみると、クリムトの世界と『エルフェンリート』の間にある多くの共通点に気づかされます。

エルフェンリート 1st Note(CD付き初回限定版) [DVD]

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人類の突然変異であり、見えない腕で物体を切断し現人類を滅ぼすウイルスを撒き散らす、新人類の女王『ルーシー』。彼女を中心に、現人類のため彼女を殺そうとするもの、利用しようとするもの、なにも知らないものなど、さまざまな人が織り成す群像劇が『エルフェンリート』です。この物語、アニメ史上作中で最も多くの人を直接殺したであろうルーシーを中心とし、また描写の残酷さが際立っているため、見る人を選びます。
しかし、選ばれたものにとってこの作品は傑作です。そして僕は、この作品をアニメ史上第1の傑作であると考えています。僕は選ばれたのでしょうか。


本人たちのあずかり知らないところで悲劇が形成され、一方的な攻撃を受ける。わずかな反抗はさらなる悲劇を生み、悪意が連鎖する。そこに、当事者たちの「自我」は存在しません。この物語の底に流れる悲しみは、このような人間疎外から来るものだと考えています。
このような点から『エルフェンリート』を見直すと、クリムトの絵がモチーフとして使われているのは、ある意味では象徴的であると考えられます。
彼は女性の裸体を多く描きましたが、それに象徴される母性=生のテーマと、周囲を取り囲む死のテーマが複雑に絡み合い、非常に危うい雰囲気を出しています。この「生と死の連鎖」=輪廻がクリムト作品を貫徹するテーマです。そこに個人の自由意志は存在していません。また、彼が好んで描いた「運命の女」というモチーフも「母性」・「誘惑するもの」の象徴であり、定められた役割を粛々とこなす存在に過ぎません。そして、足元を浸す水から「自我」は溶け出していく。
クリムトの描く人間は、運命と共にある存在なのです。
エルフェンリート』において、登場人物たちはひたすらに不幸です。運命としか言いようのない、理不尽な不幸。そんな中、飼っていた犬を殴り殺されたルーシーは絶叫しました。
「人じゃないのは、人間じゃないのは、お前たちの方だ!」
本当に人間らしくあったのは誰か?不幸な運命に対し、より不幸な相手を探した犯人か、それとも種の運命に従ったルーシーか。少なくとも、クリムトの世界ではルーシーが肯定されます。


ルーシーに与えられた救済のあり方も、クリムトの世界と類似しています。
クリムトは『ベートーヴェン・フリーズ』の中で、全人類の救済を求められた騎士に人類から顔を背けさせ、女性と抱擁するシーンを描きました。この作品のタイトルは『幸福への憧れは詩の中で満たされる』。つまり、物質的な救済を拒絶し、悲劇も運命も全てひっくるめてその芸術性の中にのみ救済を求めたのです。
エルフェンリート』がハッピーエンドかどうかは意見の分かれるところですが、僕は悲劇であったとしても、幸せな終わり方だったと思います。だって、ロダンも先のクリムトの絵を見てこんなことを言ってますから。
「なんと悲劇的で、そしてまたなんと至福に満ちていることか・・・」
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