伊藤計劃『虐殺器官』

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

「西洋における権力の大形式」をフーコーにならって整理すると、以下のようになる。
1.封建時代―法の支配―裁判国家
2.近代―規律訓練―行政国家
3.ポスト近代―生権力―管理社会
フーコーといえば規律訓練だが、それは既に終わりつつある形式であり、ポスト近代は人々の自由を保証しつつ監視・管理する社会が訪れる、と。オーウェルの『1984年』は2の時代を象徴する作品であると言えるだろうが、では、3の時代を象徴する作品とは何か。『虐殺器官』である、というのが暫定的な回答である。
丸山真男を引くまでもなく、近代化と主体化は密接な関係をもつ。国家は罪人を監獄へと入れるが、有名なsubject=主体=服従の等式により、規律訓練を通して人を主体化することを目標とする。しかし、ポスト近代の権力は、監獄に押し込むよりも、個々人にIDを与え、その足跡を淡々と記録する方が効率が良いことを知っている。ある特定のIDを追跡していけば「主体」が浮かび上がるだろうが、基本的には匿名的な断片が残されるのみである。「主体」という概念を積極的に捨て去ったポスト近代は、人々を監禁しない。確かに人々の行動は記録されるが、それによって自由を束縛するわけではない。そもそも束縛されるべき主体が存在しないからだ(この点で、伊藤計劃が選んだ「軍隊」というモチーフは象徴的である。まず、近代と異なりポスト近代では権力の主体は国家に限られない(監視カメラを設置するのが企業や自治体であるように、軍隊もまた企業がその担い手となる)。また、軍人ほど「自由な判断」が求められ、同時に「主体性」が忌避される職業はない)。
この効率の良い管理システムは、そのシステム自体をベールに覆うことで初めて成立する。リバタリアンがしばしばパターナリズムを主張するように、管理社会における自由はシステムの不可侵性のもとに成り立つ。では、そのシステムとは何だろうか。
シャンタル・ムフやウイリアム・コノリーらによって主張される「闘技民主主義」と管理社会の類似性に注目してみよう。彼らの理論では「対抗者」と「敵」は区別される。民主主義という前提を受け入れる「対抗者」と、そうでない「敵」。ムフによれば議会における敗者も再審の可能性が保証されている限り「対抗者」に止まりつづけるというが、「対抗者」と「敵」の違いは、それほど明瞭ではない。むしろ、闘技民主主義を構成する「対抗者」とは、暴力に訴える「敵」がその場から排除されている、という否定的な定義でしか捉えられないのではないか。そうであるならば、闘技民主主義とは「敵」がデモクラシーの外部に追放された状態、と定義されるのではないか。
主体の断片化(非主体化)、管理社会、デモクラシーの外部という問題。『虐殺器官』を読まれた方なら、それぞれ思い当たる節があるだろう。
これらの背景に加え、もうひとつ重要な要素がある。「虐殺言語」なる概念である。私にはこれがよくわからない。管理社会を描く『虐殺器官』において、それはむしろ規律訓練的なもので、どこか違和感を感じさせる。オーウェルから脱却しきれていない、という否定的な評価も可能だろう。しかし、そう切り捨ててしまっていいのだろうか。また個人の「虐殺器官」に働きかけるそれが、「個人的にではなく、・・・・・・社会的にその機能を発揮するモジュール」なのは何故だろう。後者は単なる疑問であって、批判ではない(というか、上手く読めていない)。幸い、脳科学には一般向けの定番書籍がいくつもある。機会があれば読んでみようと思う。
参考文献
ポストモダンの思想的根拠―9・11と管理社会

ポストモダンの思想的根拠―9・11と管理社会