ループと一貫性

「死んだ人間を弔う」というのは人類社会において普遍的な行為であると考えられていますが、この場合の「死んだ人間」とは「具体的な名前をもった個人」ではなく、「共同体における死者一般」という方が適切なのかもしれません。最も原始的な社会においても、人が死ねば弔いが行われます。しかしそれは、死ぬことで共同体的信仰に包摂され、非人格的な新たな「神」へと向けられるものであり、現世の人格と連続性をもち続ける、具体的な名前をもった「死者」へと向けられるものではなかったのではないか、と。
例えば「祟り」の問題。生前恨みを抱いた相手に「祟る」ことが出来るのは、死者が抽象的な「神」にならず具体的な個人であり続けるためです。しかし日本では(当然のこととはいえ)貴族から「たたり」が生まれ、民間においては近世に「幽霊」が生まれるまで死者が祟ることはありませんでした。つまり、近世以降において民間社会においても共同体の束縛が弱まり、それに伴って死後のイメージが「個人化」する。死んで共同体の神になるのではなく、死後も現世と同じように「私」という個人であり続けることが可能になったのではないか、と。
この傾向は現代において一層強まっていると考えられます。1980年代以降のスピリチュアルブーム。そこでは「霊魂」「前世」といった概念が頻出しますが、例えば「前世の悪行を償うために壺を買いなさい」という言葉が説得力をもつのは、壺を買わされる「私」と、悪行を行った前世の「私」とが、両者の間にある死という出来事を隔ててもなお一貫性を保っている場合においてであると言えるでしょう。
現代のエロゲでは「ループ」という題材が頻出しますが、これもやはり上記のスピリチュアルな心性(前世‐死後‐現在に至るまで一貫して存在する主体として自己)を前提としているように思われます。
大澤真幸は『不可能性の時代』の中で『AIR』や『CROSS†CHANNEL』のループ構造を取り上げ、そこには社会全体における「終わり」を宣告する絶対者の不在による、終わらせることの困難さが反映されていると論じました。この説については、まず繰り返し読まれることを前提として設計されたノベルゲームというそもそも歴史性を閑却しているという点で批判すべきでしょうが、それとは別に、ループや死を通してもなお「終わらない」人物の一貫性もまた、歴史的なものであるということを指摘したいと思います。
(エロゲじゃないですが)『ひぐらしのなく頃に』を例にすると、主人公は繰り返し殺害され、何度も別の人生を生きているにも関らず、それでも「前原圭一」という緩やかな一貫性を保ちます。毎回違ったように振る舞い、違ったように考えるという点で、彼は毎回「一度きりの生」を生きているようにも見える。しかし最後に彼は前世‐死後‐現在に至るまで共通する「前原圭一」を取り戻し、ループ構造を脱し、同時に舞台となる社会全体も一定の近代化に成功する。社会の変革と「個人」概念がより強固になっていく過程とが一体のものとして描かれているわけですが、両者の結びつきが自明なものとされるナイーブさがそこにはあるように思われます。