大正期の社会と社会科学(1)

twitterで「大正デモクラシーについて何か書け」というリクエストをいただいたので、論文のネタとかぶらないよう、比較的抽象度の高い話を書いていこうと思います。
近年の大正デモクラシー研究の成果については、有馬学氏によるまとめがあるのですが(「『大正デモクラシー』論の現在」)、このなかで冒頭から「こんにち「大正デモクラシー」という概念もしくは枠組みそのものを、日本近代史の論点・争点として検討する意味はほとんどないと思われる」と述べられているように、大正時代を(運動としての、あるいは政治制度の)民主化の時期と捉え、そのうえで研究対象を民主的/反民主的と色分けしていくような研究は、80年代以降あまり見られなくなりました。どういうことか。
かつて主流であった問いの建て方は、次のようなものでした。「大正デモクラシー」と呼ばれる状況があった。しかし、その直後には軍国主義が日本を支配し、大正時代にリベラリストといて知られた人々も、消極的にではあれ軍国主義に協力してしまう。これは何故か?本当はリベラリズムなど存在していなかったのか、それともリベラリズムが大学の研究室の中にしか存在せず、民衆の支持を得られなかったため挫折してしまったのか。
大正デモクラシーはいつ始まったのか。第一次世界大戦の勃発、あるいは米騒動、というのが「よくある答え」です。米騒動の翌年に吉野作造が黎明会を結成しているわけですから、間違っているわけではない。ただ、このように大正デモクラシーの起源を「事件」に求めることで、その評価も自ずから定まってきます。仮に第一次世界大戦が起源だとすれば、「世界の大勢」という漠然とした衝動に突き動かされた、根のない運動であったと。米騒動が起源だとすれば、社会主義嫌いのブルジョア学者たちによる、階級闘争の弥縫策にすぎなかったと(そうであるために、昭和期にマルクス主義運動が高揚すると大正デモクラシーは吹き飛んでしまう)。むろん大正デモクラシーがつねに否定的に評価されていたわけではなかったのですが、1920年代と戦後のあいだに挟まる断絶を、歴史家は無視できなかったわけです。
これに対して近年の大正デモクラシー研究では、1920年代を「現代」とみなし、むしろ1910年代以前との断絶を強調する一方で、デモクラシー/反デモクラシーという対立軸をほとんど重視しなくなったように思われます。かわって注目をあつめたのが「社会」と「改造」という言葉。すなわち社会国家と呼ばれる現代の国家−社会関係の起源を、(社会)改造という言葉の流行した大正期に求めようとする議論です。季武嘉也『日本の時代史(24)大正社会と改造の潮流』(2004年)など。これと相互補完的な関係にあるのが、飯田泰三「ナショナル・デモクラットと『社会の発見』」(1980年)で提起された「社会の発見」論ですが、これについては次回以降の更新で触れたいと思います。
全般的な研究動向としては、以下に引用する有馬氏の要約が適当ではないでしょうか。

大正デモクラシーという概念によって、ある時代を(時期区分の問題は措くとして)その前後の時代と対極的に区分したり、デモクラシー/反デモクラシーという基軸によって諸政治主体を差異化することのリアリティが、全体に希薄になっているのは確かである。しかし同時に、大正という元号で指示される時代を中心に、政党化や政治参加の拡大、あるいは既存の「国家」にかわる価値概念としての「社会」の浮上といった傾向が拡大していくこと自体は、当然ながらほとんど否定されていない。収斂よりは拡散と見えるのは、それぞれの研究が個々の事例に寄り添った実証研究であるからだが、個々の研究者は拡散し多様化する研究動向の中に自分の研究が置かれていることに、多かれ少なかれ自覚的であると思われる。
―有馬学「『大正デモクラシー』論の現在」『日本歴史』(700)、2006年―

ここでは議論の文脈が「国家」から「社会」へと変化したことが指摘されています。より正確に言うならば、かつて国家対個人、あるいは階級闘争という文脈で語られてきたのが、国家対社会、社会対個人という文脈で語られるようになったのです。近代史におけるアイデンティティ論への注目(同質性による抑圧)もまた、このような文脈の変化(社会への注目)を抜きにしては考えられないでしょう。
では、ここで言われている「社会」とは一体何なのでしょうか?
(かなり続く)