『最果てのイマ』論(6)―禁忌と社会

最果てのイマ

最果てのイマ

思い出したように田中ロミオ最果てのイマ』を読み返しているのですが(これで4度目)、いまだに「読み尽くした」という気分にはならないですね。「コミュニケーションと社会」という問題系にだけ注目している私の読み方というのは狭いと思うのですが、それでも論考にすれば3万字くらいのボリュームになって、それでなお読み落としている部分がかなりある。たとえば、今回読み返している中で気になったのが「交換」と題された短いChapter。
レヴィ=ストロースを引きながら、なぜ同一社会集団内での近親婚は多くの社会でタブーとされるのか、と話が切り出されます。よく言われるような遺伝的な問題ではない。それはおそらく、異なる社会集団との接触という状況に関わる問題なのだろう、と。たとえば複数の部族が接触する場合、部族の繁栄のために、また男性原理的にも貴重な財である女性をめぐって、しばしば戦争が起こります。それを回避するためには、むしろ近親婚のタブーを設定することで女性を部族の外へと送り出し、同時に別の部族から女性を迎えることで「交換(交易)」を成り立たせた方が良い。そうすることで社会の範囲は徐々に広がっていくのだ、とロミオは考えます。
要するに近親婚のタブーを設定することで共同体間での女性の交換が合理され、それがより広域的な社会が形成される原因になる、ということです。これを『最果てのイマ』の文脈に置き直すと、人は「他者」に触れたいと願う、それはコミュニケーションを成立させ争いを回避するための願いであるが、しかしこの願いは自発的なものではなく社会によって方向付けられており、その方向付けは(一見するとコミュニケーションとは対立するベクトルを持つ)タブーの設定によって行われるのだ、と。ウェーバーの言う「脱魔術化」とはちょうど正反対の話ですね(ただ、不合理な信仰が結果として社会の合理化に寄与するという、ウェーバーのもうひとつのテーゼとは一致している)。
社会は個人に先立って存在している。しかし「他者との接触の有り様が、社会システムの下地になっていることは断定される」。ここでロミオが考えようとしているのは、社会に包摂されながら、同時に個としての自立性を失わないような人間のあり方なのでしょう。社会のアプリオリが指摘されながらも、やはり個人と個人の関係から社会の存在を説こうとしている。この辺は非常にロミオらしい。
最果てのイマ』の序盤には、主人公が「ローカルルール」について考える場面があります。社会には複数のローカルルールが存在し、それらは時に矛盾し、その全てを守ろうと思えば何もしないでいるしかない。ここではコミュニケーションを阻害するものとしてローカルルール(タブー)が捉えられているわけですが、その捉え直しとして「交換」というChapterはあるのではないか。
ちなみに近親婚のタブーを正面から扱ったのが、田中ロミオのデビュー作『加奈』(1999年)。義理の妹を相手に抱こうか抱くまいか逡巡する話ですが、上記のような視点はまだ含まれていない……かな?その後の氏の作品では、義理の姉・妹が攻略対象ヒロインになった例は無かったような。