『加奈〜いもうと〜』―過去を語ることについて

「今の私にとって、生きるってことは動き回ることじゃなくて、考えること。……これしかないから、藤堂加奈は誇りを持って物事を考えるの。そう……決めたんだ」

田中ロミオ(山田一)のデビュー作。いつか読もうと思っていたところに、DL版の半額セール。即座に購入することを決めました。
http://www.dmm.co.jp/digital/pcgame/-/detail/=/cid=cdb_0107/
いまさら説明する必要のない有名な作品ですが、さすが有名になるだけのことはあって、非常に面白かったです。最近は世間擦れしたらしく「エロゲで泣くとか(笑)」だったのに、ええ、泣きましたとも。それはもう文字が読めないくらい。
茫然自失。感情が強引に揺さぶられ、気がついたらどこか遠くに運ばれてしまっている感じ。すべての場面で非凡な才能を感じさせるのですが、特に「今を生きる」というエンディングは圧巻です。ネタバレすると主人公の妹の加奈が死んでしまうわけですが、その後が凄まじい。

「今日、海を見た。もう怖くない」

エピローグで描かれる、自らの人生を力強く肯定する加奈の遺言。無限に続く生は誰もが拒絶するでしょうが、有限の生に対しても、誰もが恐れを抱く。そんな矛盾を抱えた人間だからこそ、死をまっすぐ見据えた加奈の言葉が感動的に聞こえるのでしょう。
……とはいえ、問題はそれを聞く主人公(と、彼に感情移入する我々)なのです。親しい人間の死は、私を傷つける。その痛みから逃れようとすれば、より一層死に囚われてしまう(第3エンド「迷路」)。死と向き合わなければならない。どうやって?
CROSS†CHANNEL』のラジオ放送。主人公は、自分のために死なせてしまった友人のことを、電波にのせて語ります。自分のために、友人の妹のために。喪の行為としての「語ること」。その志向は『加奈』から一貫して存在しているようです。果たして「語ること」とはどのようなことなのでしょうか。
自伝的作品である『仮面の告白』でデビューした三島由紀夫は、後年、以下のように書いています。

私が「私」というとき。それは厳密に私に帰属するような「私」ではなく、私から発せられた言葉のすべてが私の内面に還流するわけえはなく、そこになにがしか、帰属したり還流したりすることのない残滓があって、それをこそ、私は「私」と呼ぶであろう。
――三島由紀夫『太陽と鉄』中公文庫、9頁――

辞書で「私」という言葉を引いても、そこには誰の名前も書いていない。しかし実際に「私」と発音すれば、その「私」が話し手のことを指しているのだとわかる。構造主義言語学では、言葉の意味とは別の言葉との関係によって定義されるものですが、このとき「私」は他のどの言葉とも関係をもたず、直接話し手(正確には、話し手が「私」と発音するその状況)そのものを指し示します。人間の意識がまさに言葉によって構成されるものであるならば、「私」と発音するとき、その「私」は意識の主体である「私」からはズレてしまっている。出来事としての「私」、他者との関係の中にいる「私」を指し示すこと、これが「語ること」の本質でしょう。
ということは、「語ること」は「私」と私以外の存在との出会いの場であると言えるのではないでしょうか。
悲しいことがあると、人は新しい出会いを恐れ、意識の中に自閉しようとする。しかし他者とかかわり続ける限り、全く同じことは二度と起こらない。「語ること」によって他者と「出会いなおし」、それによって過去を位置づけなおすことが出来るのではないか。
……過去は取り返しがつかない。『加奈』も『家族計画』も『C†C』も『最果てのイマ』も、物語の軸に取り返しのつかないことが存在している。それに対して無関心でいることもできない。だからこそ、人は自らを、そして取り返しのつかないことを語るのでしょう。過去は取り返しがつきませんが、その過去と出会いなおすことはできる。「喪の作業」とは過去を忘却することではなく、H.G.ガダマーの言う「地平融合」を起こすことで、未来へ向かう時間の中に過去を置きなおすこと。私を傷つけるのが他者の他者性であるなら、私を癒すのもまた他者の呼びかけに他ならないのです。