新カント主義の時代

現代社会を「理解」したり「説明」することよりも、「よい社会を提案する」規範理論のほうが、熱く語られるようになってきた。社会が複雑になりすぎて、他でもありうる可能性が増してきたからだ。適応不全でいいから、自分が本当に望んでいる世界を探したい。そのための妄想力(?)を、SFチックに鍛えたい。

http://synodos.livedoor.biz/archives/1445271.html

上で言われていることは、ここ10年ほどの傾向としてはまったくその通りだと思います。歴史学でもひと頃の経済史の活況に対し(何時の時代の話だ……)、最近は「生命」や「福祉」といった倫理的ニュアンスの強い分野に注目が集まっているようです。とくに社会福祉史については「福祉国家の終焉(福祉国家から社会国家へ)」という議論を受けて、民間の福祉アクターが果たしてきた歴史的役割を評価する動きが目立ちますが、そこに「福祉の担い手は多元的であるべき」という現在的評価が介在しているのは間違いないでしょう。
ただ、このような言説状況が「社会が複雑になりすぎた」ためであるかは少し疑問で、それ自体分析の対象として取り上げられるべきだろう、と思います。それは史的唯物論の退潮とも無関係ではないでしょうし、国民国家論、多元主義論の隆盛のなかで、かつては自明のものとされてきた分析単位(国民経済とか国民文化とか)が問題化されたことも重要なポイントでしょう。
他にもいろいろ思うところはあるのですが、個人的に気になるのは、日本では大正期に「文化主義」として流行した新カント主義の(ほとんど表面化していないのですが)再評価の動き(ちなみに最初に引用した橋本氏も、文化主義の代表的論者である左右田喜一郎についての論文を書いています)。

新カント派哲学と総称されるそれは、一般的には、オットー・リープマンがその主著『カントとその亜流』(1865)において「カントに還れ」と主張したことにはじまるドイツ観念論復活の潮流を指す。……カントが立てた「物自体」を、認識が最終的に到達すべき理念として受け入れ、直接実在や物に向かう自然科学に対して、認識の学たる形而上学(観念論)の優位、あるいは復権を唱えたものである。……W・ヴィンデルバントやH・リッケルトらに代表されるドイツ西南学派は、普遍的な法則を記述する自然科学と、一度限りの個性を記述する人文科学との区別を明確化したうえで、自然科学概念構成の限界を指摘、実在(物)に対する価値判断の優位を説いて文化主義/価値哲学を説いたとされる。
――田中希生『精神の歴史』有志舎、2009年、225頁――

新カント主義といってもナトルプ、コーエン、ウィンデルバント、リッケルトカッシーラーと色々いて、その思想も様々なわけですが、日本ではリッケルトの価値哲学がとくに受容されたようです。人間は漠然と物を見て、そのあとでそれに価値を見出すのではなく、あらかじめ持っている価値基準をもとに物を見るのだ、と、だいたいそんな感じ。そしてその価値は単一ではなく、複数存在している。
詳細は省きますが、ドイツでも日本でも、たとえば社会進化論国家主義のような「大きな物語」が衰退して、人々が小市民的な幸福を追求して生きていこうと考えたとき、それを正当化するような理論として新カント主義は機能しました。好き勝手に生きているように見える人々の生活も、歴史の彼方において実現する理想社会への奉仕であると解釈できる。だから殊更、マルクス主義のように国家という全体性を持ち出す必要はないのだ、と。
こういった新カント主義のポジション(国家主義批判、唯物論批判、多元主義の擁護)は、実際、現代思想とも親和性を有しているように思われます。また、「物自体」の認識の不可能性を強調する点では構造主義の先駆けであるとも言われています。だから、もしかしたら現代は新カント主義の時代なのではないか、と思うわけです。
無論、否定的な意味で。

この「文化主義」あるいは「人格主義」は、「改造」「黎明」がスローガンであった一時期の論壇を風靡しつつも、実際には現実の社会にさしたる具体的影響力を行使することなくいつしか論壇の中心から姿を消してしまった。それもそのはずであり、この「文化主義」とは、そもそも現実の社会的な問題に対して解決の具体的な指針を提供する類のものではないのである。
――清水太郎「大正・昭和思想の「見失われた環」『現代思想』21(7)、1993年、229頁――

これ〔上のような批判〕もまた繰り返えされてきた指摘であるが、われわれは次のような視点を付け加えてみることにする。大正期の「文化」は安易な流行語ともなり、表層的に使用され、多くの知識人層の批判を浴びる。ただその一方で、知識人層はまた自らの手でかなり質の異なる……「文化」の概念を育て上げようとしていたのだった。軽薄な「文化」と深遠な「文化」はしかし対立しつつ、その「文化主義」という局面において共存する。……たとえば、あまりにも深遠な哲学者たちによる「文化」は、その空虚さにおいてほとんど内容を欠いた器のようなものとなり、やがて訪れる内容の充溢を期待しなければならなくなる。……内容を欠いた空っぽな「文化」はやがて「日本」(=国民)という充実した内容物を手にし、自信たっぷりな表情を周囲に示すことになる。「文化」とは自他を区別する境界線であり、その器に収まる内容物そのものに関係なくただ差異は産出する装置だ(……「大正文化」もまた世界における自らの位置づけを意識することを出発点としたのだった)。
――北小路隆志「〈文化〉のポリティックス(1)―大正の「文化主義」を巡って」『情況』第2期7(9)、1996年――