『最果てのイマ』論(1)―ためらいながら、他者を語る

最果てのイマ

最果てのイマ

ブログの編集画面を開きながら、さて『最果てのイマ』について何を書こうかと考えている自分が酷く滑稽に思える。この作品を読まれた方ならわかるだろうが、ハイパーリンクが大量に埋め込まれた「はてなダイアリー」で『イマ』について書くというのは、それ自体がパロディのようなものである。私は批評をやりたいと思うが、それによって作品のオリジナルの意味に到達することは決してできない。どれだけ作品の意味を正確に捉えようと思っても、どこかにズレを抱えてしまう。これから書くことはあくまでもパロディなのだ。
しかし、それはテクストが多義的だからではない。例えばジャック・デリダ脱構築は、テクストの決定不能性を定式化したものと考えられがちであるが、デリダ自身が強調しているように、脱構築は言語の一般理論としてあるのではない。それはむしろ、テクストの正しい意味を追求していくと必然的に挫折せざるを得ないというテーゼのくり返しなのである。それはどこか人間関係にも似ている。私はあなたを理解したいと願っているが、理解したと思った瞬間にわからなくなってしまう。それが本質なのだ。我々は互いに他者である以上、理解し合おうとする試みはくり返し失敗する。「家族」「共同体」「社会」といった擬制はその根源的な他者性を隠蔽しようとするものであると言えるだろう。
だからといって「所詮他人のことは理解できない」などと言うべきではない。むしろ、こう言うべきなのだ。「あなたのことが理解できないからこそ、理解したい」あるいは「あなたのことは理解したくない」と。私とあなたが互いに他者であることを、一般論として語るべきではない。個別論として語るべきであり、互いに差異を抱えていることを認めたうえで、どこに共同性を見出すかが重要なのだ。夏目漱石は『こころ』で以下のように書いている。「私は死ぬまえにたった一人でいいから、ひとを信用して死にたいと思っている。あなたはそのたった一人になれますか。なってくれますか」。漱石が描いたように、どこにも帰属できない孤独を突き詰めていく中で、新たな共同性が生まれてくるのかもしれない。あるいは本質的に自分が孤独であることを直視せずに生きていくことも可能なのかもしれない。確実に言えることは、互いに他者であることの痛苦に対する感受性を欠いた他者論は、他者論であるにも関わらず、ナルシシズムへと接近していくということだ。
田中ロミオは「他者性」を描く作家である、と言われている。しかし、一般的な理解とは異なり、彼は他者性を好ましく、かくあるべきものとしてのみ描いているわけではない。代表作の『CROSS†CHANNEL』においても、共依存を徹底的に否定する主人公に対し、登場人物のひとりである支倉曜子はこう反駁している。「相手から何も与えられない……寂しくはならない?」。この問いに対する主人公の返答(「キレイなものを見るのが、好きなんだよ」)は相当苦しい。趣味の問題であり、一般論として語ることは出来ない。だからこそ「寂しさを、どう誤魔化すかは大切なこと」なのだ。そして『イマ』はこのテーマの延長線上にある、と僕は思う。

沙也加「私たちは互いに他者になれない」
忍「……どうして?」
あまりに低く機械的な声調を、忍は自分のものとは信じられない。
沙也加「求めて近づけば、結局は一体になるしかない。自分の延長。/そして離れれば他者であるが故に、遠く届かず満ち足りない。/理想の距離がどこにあるのか、私たちは知らない。/今までの、誰も知らない。」
――本堂沙也加編「デート(仮)〜甘酸っぱい何かのために〜」――

もう一度書こう。我々が互いに他者であることを、一般論として語ってはならない。それは、個別のコミュニケーションのなかで、失敗としてのみ感受されるものであり、痛みや苦しみを伴うものだ。田中ロミオの他者論はその現実を直視しているが故に、屈折したものとなる。crow_henmi氏のような優秀な論者でさえ、その点を見逃している。
http://d.hatena.ne.jp/crow_henmi/20060511/1147338441
crow_henmi氏は『CROSS†CHANNEL』から『イマ』における自他関係論の変遷を「対幻想」から「自己幻想」へ、つまり他者性を認識した上での関係から他者性の存在しない関係への後退として捉えているわけだが、それは両作品で描かれたことの半分しか捉えていない。他者性が人間の本質ならば、共同性はその本質に基づく、人間の根源的な欲望なのだ。『CROSS†CHANNEL』も『イマ』も、両者を同時に捉えている。むろん、重点を置く場所は異なるが。


本格的な議論は次回から行うとして、今回はその予備作業として、数少ないまとまった先行批評である福嶋亮大氏の説に対する批判を試みることにする。
http://blog.goo.ne.jp/f-ryota/e/dd7b948890ae91bd15e4a59e69247dbb
福嶋氏の提示する論点は多岐にわたり、4回に分割して書かれたという事情のためか全体像をつかみづらいのだが、まずは議論の要約を行ってみよう。福嶋『最果てのイマ』論のキーワードとして、「心」「コミュニケーション」「快楽」の3つが挙げられる。まず「心」についてだが、福嶋氏は「他者が心をもっている」という自明の前提が崩れた現代において、『イマ』が「いかにして心は成立し得るか」を問題化していることを高く評価する。『攻殻機動隊』のように「ゴースト=心」を人間が本来備えているものとして考えるのではなく、コミュニケーションを交わす過程ではじめて「あの人には心があるらしい」ということがわかってくる。『イマ』における「心」は、そのような具体的なコミュニケーションを抜きにして存在することはできないのだ、と。
ここで2つめのキーワードである「コミュニケーション」の問題が関わってくるのだが、具体的にどのような局面において、我々は相手に「心」の存在を感じるのだろうか。機械から機械へ情報を送るような「伝達」は単なる作業でしかない。「心」を感じるには、むしろ「情報が正確には伝わっていないのではないか」という不確かさが必要になる。つまり、「正確な伝達」が成り立たないようなコミュニケーションにおいて初めて「きっとあの人は〜と考えているのだろう」と推測する余地が生まれ、そこに推測されるものとしての「心」が生じるのだ。福嶋氏の考える、『イマ』のシナリオ構造(「千々に撒かれたパズルのピース」)の意義とは、「心」を生じさせるようなコミュニケーションを可能にする装置であると言えるだろう。
では、なぜ改めて「心」を生じさせる必要があるのか。福嶋氏は「快楽を持続させるためだ」と言う。『イマ』において、「日常編」から「戦争編」までは心の存在が自明であり、その繋がりが強まるなかで「快楽」が高まっていくが、あらゆる快楽は終わりを伴っているが故に、終戦によって快楽も消える。「快楽は想起には適さない」と福嶋氏は言う。快楽は必ず刹那的であり、ゆえに終わりを想起させる形でしか存在しえない。具体的には、日常のコミュニケーションがもたらす快楽をどうやって引き伸ばすか、という問題がここで提起されている。お互いが心を有しているからコミュニケーションが可能になり、それによって快楽も得られるのだが、人類が衰退しつつある時点では、お互いが心をもっていることは自明ではない。ゆえに、心の存在を想起させるような仕掛けが必要であり、それが『イマ』のシナリオ構造なのだ、と。
おおむね以上のように福嶋氏の議論は要約できるだろう。まず、福嶋氏の基本的な問題意識である、「心の謎」というミクロ状況と「人類の衰退」というマクロ状況はセットで考えるべき、という点は同意できる。「千々に撒かれたパズルのピース」というシナリオ構造を、正確に並べなおすのではなく、時系列が狂っていることそれ自体として考えるべきという点についても、批判の余地はない。その上で何点か批判を加えてみたい。
まずは瑣末な点から。福嶋氏は「快楽」というタームによって議論を収束させようとしているものの、『イマ』のなかに上手く位置づけられていないように思われる。「快楽」は日常のコミュニケーションのなかに生じるとする一方で、「戦争編」での主人公に対し「主人公はあらゆる快楽を体験できる」と書いている。『イマ』を読まれた方には自明のことだが、全人類と意識を接合した主人公は、倫理的葛藤を覚えたり孤独に悩んだりすることはあっても、快楽を覚えることはない。これはおそらく、「人類が衰退したあとにも快楽を持続させるにはどうすれば良いか」という問題意識のために、衰退する直前(つまり戦争編)を快楽の絶頂期にせざるを得なかったためだろう。
次に、これまでにも述べてきたように、『イマ』において他者性は決して一般論として論じられるべきテーマではない。福嶋氏が言うように、互いに他者であるがゆえに、その間に「心」が生じ、コミュニケーションが可能となる。それは正しいのだろうが、ロミオは我々が互いに他者であることを決して手放しで肯定しているわけではない。互いに他者であることの痛みに対する共感を欠けば、それは単なる「差異の称揚」に終わってしまうだろう。
また、福嶋氏は『イマ』が絶対に埋められない欠損を抱えていること、記憶の欠落があることを重視しているが、それによって「全体の構造を理解できないこと」と心の生成を結びつけるのは若干無理がある。事実、全体の構造を理解できなくても個々のチャプターは理解できてしまうし、むしろ、我々は一読して理解(それは誤解の一種だ)できるように書かれているのだ。繰り返し読まれ、その度に解釈が変化するようになっている。ここで重要な点は、福嶋氏がコミュニケーションの「相手」の心を問題にしているのに対し、繰り返し読まれる中で変化するのは、相手ではなく主人公の心だということである。フーコーの書名を借りるなら「自己への配慮」がここでは問題とされているのだが、それを捉え損なっているのである。
『イマ』が「私の記憶」をモチーフにしている以上、私がどのように構成され、逆に、私がどのように世界を構成するのかを見なければならない。他者の他者性のみを問題にするのなら、逆説的ではあるがナルシシズムに陥ることになるだろう。それこそ、ロミオが繰り返し批判していることではないか。エピローグでさえ、主人公はヒロインを「僕が傷つけてしまった彼女たち」と呼ぶ。ロミオにおいて、他者は他者であると同時に、私の中に食い込んでしまっている。だから大切なものであり、傷つきやすく傷つけやすい人々なのである。
ナルシシズムとは、私が他者に対する潜在的な加害者であることを見ようとせず、他者とわかりあえないことを嘆くだけの被害者であろうとすることだと思う。ジュディス・バトラーの用語を使えば、「可傷性」をどう受けとめるか、という問題を考えなくてはならない。(続く)