謹賀新年

今年は厄年だということで、元日の朝5時から神社まで行き、お祓いを受けるということに僕の知らない間に決まっていたので、不承不承実家に帰っていました。そういう風に決めた僕の親も、僕自身も、あるいは神主でさえもお祓いの効用なんて信じていないのかもしれない。それにも関らず、多くの人がそれを受けるためだけに地元に戻る、というのはなかなか面白い事態だな、と思います。超寒かったですけどね。
そんな話はともかく、今年は週2回くらいのペースで更新を続けていきたいと思っています。昨年はtwitterという新しいメディアに浮気していましたが、書いてすぐに反応が返ってくる即時性は魅力であるものの、ブログの迂遠さの方が僕の性にはあっているようです。

犀川は、英語の論文を読んでいた。彼が生まれるまえに書かれたものだった。もうこれを書いた人間はこの世にはいないだろう。自分の論文も、ずっと未来の世界のどこかで、こうして読まれることがあるのだろうか。こんな悠長な情報伝達はいつまで続くのだろう。
――森博嗣すべてがFになる』――

ただ、僕にはこの悠長さ、迂遠さというのがとても大事なことのように感じられるのです。twitterの難しいところは、向かい合って会話をしているのとほとんど変らないからこそ、「誤読されてるな」と思ったらすぐに訂正したくなってしまうところにある、と僕は思います。「人には誤読する自由がある」なんて思っているわけではありませんが、そういう環境下だとどうしても「自分の理解が正しいか間違っているか」が主要な問題になってしまう。正しい方が良いことは間違いないのでしょうが、あまり重要ではない。「で、あなたはこの話を聞いて何を考えましたか?」と聞きたくなる。それにはある程度の迂遠さが必要なのではないかな、と。

浅田 僕は基本的に「投瓶通信」モデルしかないと思っています。手紙を瓶に入れて海に流して、九割方が失われるであろうが、一割は誰かが拾ってくれるかもしれない、と。
それに対して、東さんは、もともと郵便の誤配ということを、デリダ論の中心にしていたにも関らず、インターネットで自ら「配達」システムをかなりの程度まで組織できるようになったからには、ネット上で、それこそ村上春樹と競い、あるいは平野啓一郎と競い、より多くの人に郵便を届けるために営業努力せねばならぬ、ということを強調する。
言わば、メッセージよりもメディア、あるいはコンテンツよりもネットワーク・アーキテクチャの方が大事だという話になってくるんですね。
浅田彰蓮実重彦「対談「空白の時代」以後の二〇年」(『中央公論』2010年1月号)

浅田彰のこの発言は伝統的な「コミュニケーション」モデルに基づいたもので、僕が以前「物語の中の携帯電話」という記事で取り上げたようなコミュニケーションの地殻変動とすれ違ってしまっているのは確かだと思います。それでも僕がこの浅田発言に共感するのは、言葉が通じることを前提としたコミュニティというのは結局、「同質性を共有する」ことしか出来ないだろう、と考えているからです。理解の正確さを誇るのではなく、むしろそのズレを共有できるような、別の言い方をすれば、我々が互いに異質な他者であるという事実によって繋がれるようなコミュニティのあり方を、僕は考えたいと思います。