『CHAOS;HEAD』

カオスヘッド 1 通常版 [DVD]

カオスヘッド 1 通常版 [DVD]

本放送時には完全にノーチェックだったのですが、今頃になってはまってしまい、結局二日で全話を視聴しました。一番面白いのがOPで、第1話が二番目、第2話が三番目、最終話近辺はうーん、という典型的な尻すぼみ型の作品ですが、それでも序盤の地に足が着かないまま話が錯綜していく独特の感覚を味わうためだけにでも、観る価値のある作品だと僕は思います。
まず主人公の人物造形がユニークですね。7歩歩く間に妄想の世界に入り込む曹植系男子、と言ったところでしょうか。妄想と現実との境界をあえてあいまいに描いているようで、気がついたら現実から妄想に切り替わっている。こうして現実の中に妄想が入ってくる一方で、現実が妄想的になってくるために両者の境界は一層あいまいなものとなります。この点、ヒロインである咲畑梨深の非現実的な人物造形もまた注目に値するといえるでしょう。「こんなやつ現実にいねーよ」というタイプのキャラクタなのですが、この作品に限っては現実の怪しさ、うそ臭さを強調する上で重要な役割を果たしているように思われます。
妄想が現実化する、というモチーフそのものは決して珍しくはありません。作り手自身の創作活動が作品内に投影されているだけ、とも言えるでしょう。それでもこの作品がいくらかの新しさを獲得しているのだとすれば、それは妄想という虚構に対して猟奇殺人という極端な現実を対置し、その両者が極端さのゆえに接近していく、という事態を描きだしたことにあるのではないかと思います。そういった意味で「現実とは何か」という問題に一石くらいは投じているのではないでしょうか。
ただ、やはり中盤以降の展開はいかがなものかな、と。世の中の大抵の謎は「秘密組織」を持ち出せば解決可能なのだということがよくわかりましたが、渋谷という街をある意味では閉鎖的に描きだすこの作品と、国家規模の「秘密組織」との相性はいまひとつ。観ていてどこかはぐらかされたような気分になりました。
そこから遡って、この作品で描かれた「渋谷」の均質性について考えてみるのも面白いかもしれません。作品内の「渋谷」はもちろん現実の渋谷ではなく、極度に抽象化・シンボル化された渋谷であるといえます。くり返し登場する「109」、スクランブル交差点。私たちが天気予報や新聞による抽象化を通して遠隔地との空間の均質性を確認するように、物語内における空間の均質性もまた、何らかの抽象化・シンボル化を経ることによって初めて保証されるのではないか、と。均質的な空間を「風景」と呼ぶのであれば、ここでもやはり柄谷的な問題(風景は内向的な人間によって見いだされる)が関ってくるように思われます……と、この辺は半分与太話。もうちょっと考えてみます。