『ARIA The ORIGINATION』に関する雑感

ARIA The ORIGINATION Navigation.1 [DVD]

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ARIA』の原作を読んでいると、コマ割が映画的だな、ということ強く感じます。簡潔なモンタージュで空間を繋げ、類似したカットの連続で時間の経過をテンポ良く表す。アニメ版においてもこのスタイルは踏襲されているようです。ロングショットや俯瞰ショットが多用されていることも原作と同じ。
その一方、アニメ版における独特なスタイルのひとつとして、たえずカメラが縦横にゆっくりと移動しながら空間全体を描き出していることが挙げられます。このスタイルは時間、そして「ネオ・ヴェネチア」という空間の連続性を感じさせる上で重要な役割を果たしています。たとえば以下のシーン。




藍華とアリスを映したあとカメラはそのまま横にスライドし、アリア社長とヒメ社長を捉えます。こうしてふたつの事件が同じ空間で起こっていることを強調し、そして灯里が笑っている姿をモンタージュで繋げ、彼女がふたつの事件を一歩引いた位置から眺めていることを示す。という使い分けがされているようですね。
ただ、こういったカメラの移動を伴う「長回し」は、類似したカットを連続させる原作の時間表現と同じ効果を狙っているのかもしれません。


それにしても今週は藍華が可愛かったなぁ。アルの背が低いので、並んで歩かせるのは大変そうでしたが……。


ところでこのアニメを見ていると、物語と「場所」の問題について考えさせられます。例えば今週の『ARIA』では藍華とアルが枯れ井戸におちてラブコメしていましたが、ふたりは枯れ井戸があったから落ちたのか、落ちるために枯れ井戸があったのか。

現実なら前者であり、物語なら後者、と考えるのが普通でしょう。ご都合主義だな、と笑いながら。
ただ、現実の都市を舞台にしたり、『ARIA』のように「ネオ・ヴェネツィアという都市が『ある』のだ」としたりすることで、見せ掛けの必然性が生まれるのではないか、なんてことを考えます。誰かネオ・ヴェネツィアの地図を作ってくれないかな……。


ついでに、今週放送された第10話を見ながら考えたことを少し。

客A「ねえねえ、あれって『ため息橋』だよね」
客B「そうそう。確かガイドブックに載ってた」
アリス「あ、あちらに見えてまいりましたのは『ため息橋』です」
客A「ああ、やっぱり」
客B「ため息が出るほど美しいもんね〜」
アリス「いえ、名前の由来は昔マンホームのドゥカーレ宮殿で判決を受けた囚人がこの橋を渡るとき皆深いため息をついたという」
客A「あ、海!」

この一連のやり取りから、「文化財とは勝利者たちの戦利品である。文化財と呼ばれるものが文化の記録であることには、それが同時に野蛮の記録でもあるということだ」というウァルター・ベンヤミンの言葉を思い出したのは、きっと僕だけではないでしょう。
ARIA』のユートピア的な舞台設計に対して、モデルとなったヴェネツィアや中世的ギルド制度の「負」の側面にまったく目が向けられていない、という批判や、ブルジョア美学だ虚偽意識だ資本主義の走狗めー、みたいな批判を時折目にします。それに対する僕の考えは「文化や芸術とはそういうものだ」というもの。
文化や芸術は、闘争の歴史を隠蔽すると共に、確かにそれが存在したことを記録してもいます。ある駅のオブジェが、芸術作品であると同時に、それが駅に浮浪者が集まれないようにするために作られたことを知っている人にとっては「墓標」であるように。ネオ・ヴェネツィアの「文化や芸術」を、それによって隠蔽されたものの「墓標」に見立てるのは、まったく正しい見方です。
ただ、墓標を見つけ亡霊を味方につけることは、軍隊にとっては必要なことだけれど、日常を生きる上ではあまり必要ではないのでしょう。
と、抽象的な語句が多くなってゴメンナサイです。