アニメにおける「携帯電話」の表現について

アニメにおける基本的な技法である「モンタージュ」は、しばしば遠く離れた2人をすぐ近くに存在するかのように描きます。『ガンダム』では1つの画面を2つに分割する技法が頻繁に用いられますが、これもモンタージュと同様に、離れた場所にいる2人が同じ場所で向かい合っているように見せかける技法であると言うことができるでしょう。
一方で、『ef - the latter tale.』のデモに見られるように、他者との対比や画面構成によって「近いようで遠い」距離感を表すことも、アニメは得意としています。

では、全然近くない、遠く離れた2人を描くにはどうすれば良いのでしょうか?
背景を変える、言葉を変える、服装を変える……理屈の上ではわかるのですが、どれも心情に訴えかける効果的な表現とは言いづらいような気がします。つまり、アニメというメディアは「近さ」と「微妙な遠さ」を描くことを得意としながらも、心理的あるいは物理的に「遥かに遠い」という感覚を描くことはむしろ苦手なのではないか、と。
そして、それを克服するために必要とされるのは、広大な空間を描くことではなく、「近づけるはずなのに近づけない」というある種の逆説に他なりません。
そのような逆説を語る上で重要なギミックとなるのが「携帯電話」です。携帯電話の普及以降ドラマの作り方が変わったと言われますが、それは単に「すれ違い」が描きづらくなっただけなのか。いや、そうではなく、人と人との距離、そして関係を描くというドラマの根幹自体が変化した、と僕は考えます。この記事で論じるのはそのような話です。


本題へと入る前に、携帯電話についての一般論に触れておきたいと思います。携帯電話は一般的にコミュニケーションの道具であると考えられていますが、そもそも顔を合わせて会話することと電話で会話することは同じであるといえるのか、手紙と電話の間にはどのような違いがあるのか、といった問題について考えてみましょう。
まずは会話と手紙の違いから。作家のフランツ・カフカは恋人に向けて膨大な量の手紙を残していますが、その中には「手紙について書かれた手紙」も存在しており、コミュニケーションに関する彼の鋭い洞察がうかがえます。例えばこういう内容。

「われわれはあまり一緒にいませんでした、それは本当ですが、しかしたとえわれわれが一緒にいたとしても、ぼくはあなたに(ただし実行不可能なことですが)ぼくを手紙から判断するよう、直接の経験からそうしないように頼んだでしょう。手紙にひそむ可能性は、僕の中にもひそんでいます」
― 1915年3月25日付 ―

これをカフカの対人恐怖症の表れだと考えても、必ずしも間違いとは言えません。ただ、ここでは最後の「手紙にひそむ可能性は、僕の中にもひそんでいます」という一節に注目してみましょう。ジャック・デリダは西洋哲学における伝統的な考え方、「書かれたもの」に対する「発話」の優位を転倒させましたが、カフカが意図していることもそれと同じく、間接的なコミュニケーション(非現前性)に対する直接会ってするコミュニケーション(現前性)の優位をひっくり返すことにあったのではないでしょうか。
誰かと一緒にいること、誰かと一緒に話していること。そういった現前性を、僕たちは普通、手紙のような非現前性よりも本来的なものであると考えます。しかし重要なことは、古代ギリシア人が唱えた「発話の優位」は彼らによって書かれたものを通してしか確認できないのと同じように、現前性の優位もまた非現前性を通してしか確認できないのだ、ということです。例えば「いま」僕が誰かと会話しているとしましょう。手紙ではなく「いま」こうして会話していることに、僕は満足を覚えています。しかし実は、僕が「いまは楽しいなぁ」と思った瞬間、その「いま」は既に過ぎ去ってしまっている。「いま」とは過去の痕跡でしかありえないのです。そのため、現前性や発話の優位とは、「過去の痕跡」によって「いま」を確かめながら、同時に痕跡の存在を忘れてしまうことによってしか成り立たない、と言えるでしょう。
カフカが直接的な会話(現前性)に対する手紙(非現前性)の優位を主張したのは、「手紙」が示す起源との隔たりこそがコミュニケーションの本質であり、現前性の感覚はその隔たりを隠蔽することによって初めて成り立つのだということを知っていたためではないでしょうか。そして、コミュニケーションが他者の言葉を解釈し、他者に向けて言葉を投げかけるものである以上、自分と他者との間にある「距離」はコミュニケーションの障害ではなく、むしろそれを成り立たせる必須条件であると言えるます。だからカフカは、コミュニケーションを活性化されるためにこそ「手紙」を用い、自分と恋人の間にある距離を常に確認しなければならないと思ったのでしょう。
これから取り上げる携帯電話は、発話者と受信者との間に物理的な距離があるという点で「手紙」の特性を共有しています。しかし、携帯電話はその「同時性」(発話者と受信者が時間を共有している)という点からコミュニケーションの現前性を際立たせるメディアであり、先述した「他者との隔たり」というコミュニケーションの前提を掘り崩す特性ももっています。携帯電話はコミュニケーションを可能にすることもあれば、不可能にすることもある。まずはその両義性を確認しておきましょう。
携帯電話でつい本音を言ってしまい、喧嘩したり罵倒したりする。あるいは逆に、ひどくよそよそしい会話になってしまう。このような描写はこれから取り上げる諸作品においても頻出します。単純に図式化してしまえば、携帯電話の現前性が前面に押し出されると(つまり他者との隔たりが意識されないときは)コミュニケーションが不活性化し、非現前性が意識されると(遠く離れた相手と会話していることが意識されると)喧嘩になってしまう。ただ、喧嘩もまたコミュニケーションの一種であると考えれば、コミュニケーションが活性化しているのは後者の方であると言えるでしょう。
携帯電話が遠くの人と会話する道具であることは割合に意識されやすいので、携帯電話の「現前性」はその多くを「同時性」に依存しています。他者と同じ時間を共有しているので、隔たり(非現前性)が意識されにくくなる。これから具体的な作品を列挙しながら携帯電話の機能を見ていきますが、そこでも「同時性」が主要な問題となります。


最初に取り上げるのは、昨年最大の問題作『School Days』の最終話です。

向かい合って座る主人公とヒロイン。会話はなく、気まずい雰囲気が流れます。やがてヒロインが席を外し、主人公はひとり残される。すると、先ほど席を外したヒロインからメールが届きます。

ヒロインが主人公に対して送った、最後の別れを一方的に告げるメッセージ。これが、直前の机越しに向かい合った状態ではなく、携帯メールによって送られたという点は注目に値します。主人公の度重なる裏切りによって近づくことのできない「遠さ」を感じるようになったヒロインにとって、携帯でつながる「近さ」は、机の向こう側までの距離よりも近かったのではないでしょうか。
School Days』において携帯電話は、上記のシーンを除けばほぼ一貫して、近づくことのできない2人の「遠さ」の象徴として描かれてきました。主人公が勝手なことを言い出して相手を突き放すときも、携帯メールがきっかけとなります。それが、最後の最後になって逆転している。こういった点からも僕は『School Days』のドラマ性を高く評価しているのですが、あまり理解されない……。


ところで、僕の知り合いには「携帯電話が嫌いだ」という人が少なからず存在するのですが、その理由を聞いてみると、こちらの都合とお構いなしに突然電話がかかってくるのが嫌だ、とのこと。これは単純なようで携帯電話の本質を捉える上で非常に重要な点であると思われます。
つまり、携帯電話によるコミュニケーションというのは、コミュニケーションという名前とは対照的に一方が他方の時間を支配する(電話)、あるいは無視する(メール)という「個人的な」性質を強く持っており、その考えを推し進めれば、コミュニケーションは相手がいないときに最も上手くいく、という極論さえも引き出せるのです。


再び『School Days』より、ヒロインのひとりが繋がらない電話に向けて話続けるシーン。上記の「極論」をまさに実行しているわけですが、同じ時期に放送された『ef - a tale of memories.』でも似たようなシーンがあることからもわかるように、簡単に非現実的な話だとは思えない、妙な説得力があります。

「最近の女子中学生の携帯の使い方」という記事では、最もプライベートな空間である自宅において、携帯電話を通して常に他者と「つながり続けている」中学生についての話が書かれています。
一般的なコミュニケーションについての概念は、言葉の送り手と受け手が存在し、他者としての送り手から来る言葉を、やはり他者としての受け手が自らの知識によって解釈する、という作業が前提とされています。しかし、上記のような携帯電話によるコミュニケーションはそれと全く異なります。それは、距離をゼロにする携帯電話によって相手と直接につながること、ひたすら「近さ」を求める行為であると言えるでしょう。


遠距離恋愛というモチーフを好んで取り上げる新海誠の諸作品においてもやはり、携帯電話が頻繁に描写されます。しかし、これは大澤氏も指摘していることですが、新海誠は携帯電話を、携帯電話を使ってもなお埋められない距離が存在するのだという逆説的な使い方をすることによって、これまで挙げた例とは違った結論を引き出そうとします。

ほしのこえ』では、広い宇宙で離れ離れになった少年と少女にとって互いの気持ちを確認する唯一の手段である携帯メールでさえも、それが相手に届くまで8年もの時間がかかる、という状況が描かれます。このときは「時間や距離を越える想いがあるんだ!」なんてスピリチュアルで中途半端な逃げを打つのですが、最新作の『秒速五センチメートル』ではもうひとつの「メールが届いた8年後」が描かれており、それがあまりにも遅すぎたこと、そしてメールによるコミュニケーションが物理的な接近を伴うコミュニケーションの代わりにはなれないという「限界」を示す先鋭化を見せています。

しかし、それでもなお携帯電話は「近さ」を感じさせる道具であることに変わりはありません。『秒速』に描かれる、電車に乗った主人公と、携帯電話を操作する女性。この女性にとって、隣に立っている主人公よりも、携帯電話の向こう側にいる誰かの方に「近さ」を感じていることは明らかです。

『秒速』の主人公は、遠く離れた恋人にも、すぐ隣にいる女性にも近づくことができなかった。他者との親密さを「近さ」に置き換え、それを携帯電話によって手に入れようとする試みは、やはり無理があると言うべきでしょう。そうであるならば、「近さ」を求めることそれ自体の是非から問い直してみる必要がありそうです。
もっともプライベートな領域までふたりを近づけてくれる「携帯電話」。しかし、そこに問題点があるとすればそれは「近すぎる」ことであり、互いの距離を感じながらも上手くやっていこうという適当さが足りないことではないか、と。


最後に、どうして「アニメにおける」携帯電話なのか、という話を改めてしておきましょう。
新海誠の諸作品、あるいは『ef』において描かれた携帯電話をめぐる問題は、常に携帯電話の「同時性」を前提としてきました。携帯電話によって距離がゼロになることと、携帯電話によっていつでも相手と連絡を取ることができること、本来であればこの2点は別のこととして考えられるべきですが、なぜか一体のものとして現れます。そして、その同時性が崩れるときに携帯電話がドラマの核となるのです。
これはおそらく、携帯電話の普及に伴い、親密さを図るものさしとして「距離」の重要性が薄れ、代わって「同時性」がその位置についたためであると考えられます。
http://narinari.com/Nd/2007097922.html
■携帯のメール返信時間!■ - メールの返信が遅い人はなぜですか?... - Yahoo!知恵袋
メールの返信が遅いと怒る人々。彼ら彼女らにとって、メールの返信が届くまでの時間が親密さの目安となるわけです。
アニメにおける表現は、究極的に「時間」と「空間」に集約されると言えるわけですが、「空間」における「距離」と、「時間」における「同時性」、この2つの交差点として携帯電話が描かれることの重要性は改めて指摘しておきたいと思います。
参考文献

ハイデガーとハバーマスと携帯電話 (ポスト・モダンブックス)

ハイデガーとハバーマスと携帯電話 (ポスト・モダンブックス)

不可能性の時代 (岩波新書)

不可能性の時代 (岩波新書)

脱構築 (思考のフロンティア)

脱構築 (思考のフロンティア)