最近は民衆宗教の経典を読んでいるのですが、ときどき「これはブログっぽいな」と思うことがあります。文章のほとんどは「神は〜と言った」とか「〜するものは地獄に落ちる」といった話なんですけど、ちょこちょこと「〜に祭壇を作るので近くに住んでいる誰某は立ち退け」という(教祖にとっての)身近な話が出てくる。この緩急の付け方が、いかにも人気ブロガーっぽい。そうか、人気ブロガーになるために必要な資質とは、教祖になるための資質と同じだったのか、と納得した今日この頃。


・共約不可能な生のなかで、他者とほんの一瞬だけ交差し、また離れていく。私とあなたとの間には絶望的な隔たりがある。しかし、その隔たりは同時に、私とあなたとを結びつける絆となる。私があなたに共感し、あなたのことを考えるのは、私とあなたが違った場所で生きているからだ。twitterをやっていると、よくそんなことを考える。言葉はコンテクストから引き離され、宙を漂う。twitterに言葉が正しく伝達される、ということは誰にとっても自明のことではない。しかし、それでもなお私とあなたは会話することが出来る。普遍性、とはこういうことではないだろうか。

逆説的に聞こえるかもしれないが、「わたし」が「あなた」の苦しみに「共感」することができるのは、「あなた」が「わたし」の苦しみと共約不可能な苦しみを経験していることを理解したときに、はじめて可能である。苦しみの共約不可能性があるからこそ、苦しみの「共感」が生まれる。「あなた」が苦しいのわかるが「わたし」だって苦しいのだと居直るならば、「わたし」はけっして「あなた」と出会えないだろう。
イ・ヨンスク「マジョリティの『開き直り』に抗するために」


・少し前に書いた山尾三省論では、他者が差異のまま私に食い込むことによる、私の「傷つきやすさ」について言及したが、それは同時に私の他者に対する「傷つけやすさ」でもある、ということを補足しておきたい。ナルシシズムとは、私が他者に対する潜在的な加害者であることを見ようとせず、他者とわかりあえないことを嘆くだけの被害者であろうとすることだと思う。ジュディス・バトラーの用語を使えば、「可傷性」をどう受けとめるか、という問題。
同人誌晒しの話で連想したのは、この可傷性という概念だった。公共的な領域は「傷つきやすさ」に満ちた世界ではあるのだけど、自らの「傷つけやすさ」を見ようとしない自称中立と、可傷性が実際にはきわめて不均等に存在している状況への批判はやはり必要だろう。「公共の場に作品をさらせば批判を受けるのは当然」という世俗主義者は、この可傷性の不均等についてきちんと応答しなくてはならない。公共領域に暴力がつねに一定数存在するとすれば、BL本の作者へ暴力が集中することで、自身は安全な場所から世俗主義を唱えることが可能になっているのだから。


・本屋で『「坂の上の雲」読本』というタイトルの雑誌を読んだのだけど、内田樹氏が寄稿していて、それが中々面白かった。「なぜ司馬遼太郎は「国民作家」なのか」というタイトルだったかな。要するに司馬は、大学教授のように西洋と比較して日本を批判したりするのではなく、当時の日本がおかれていた状況を所与の前提として受けいれた上で、手持の材料で上手くやれたかどうかを考えたのだ、と。
普通の生活者が「どうして俺は大富豪の家に生まれなかったのだろう」とかいちいち考えないのと同じように、司馬も、戦前の日本に生まれ、戦後の現在に生きているという事実を前提として受けいれる。そして、今のところはまあまあ上手くいっているようなので、このまま上手くやろうぜ、と堅実に考える。いちいち理想を持ち出さない、この生活者感覚こそが司馬の「国民作家」(そして海外では読まれない)である所以なのだ、と。
なるほどなぁ、と思いつつ、先日のゼミでのやりとりを思い出していた。ある学生が先行研究に触れながら、それを書いた人は「もう消えてしまった」と発言する。それを聴いた先生は「世間から見れば、消えたのは私たちの方だよね?」と返す。続けて「〜さんは完全にこっちの人間になったんだね」と。
アカデミズムの恐ろしいところは、そこに長くいると、自分たちが社会全体を俯瞰しているように思えてくるところだと思う。だからこそ、アカデミズムの場から外れることを「消える」と表現できるのだろう。エドワード・サイードが言うように知識人は彼の研究対象に対してアウトサイダーだが、アウトサイダーであることで全体を把握していると思ってしまう。
こういうとき、安丸良夫が『近代天皇像の形成』のあとがきで書いていたことを思い出す。安丸は敗戦の日のことを思い出しながら、自分は戦争に負けたことが悔しくて仕方なかったのに、家に帰ったら母親がいつも通りの生活を生活を続けていたことが不思議だった、と書いている。「一介の庶民であり、それゆえに生活の専門家である私の母のような人間にとっては、戦争も国家も余計な闖入者で、そうした次元に囚われやすい私とは精神の位相が異なっていたということであろう」。
結局のところ、どこまでいっても学者は「変わり者」でしかない、ということだろう。歴史学の先生で司馬遼太郎を馬鹿にしている人はたくさんいるが、まあ、彼らの文章が司馬ほど売れないのは内容の難しいから、というより、視線の置き方が違うためなのだ。


ニコニコ動画で「俺たちに翼はない」のOPムービーを観てた。これは本当に素晴らしい出来だと思う。
http://www.nicovideo.jp/watch/ze5853084
一番素晴らしいのは、西又葵のキャラデザと全く似てないところ。


・今さらながら『それは舞い散る桜のように』を読み始めた。そこでこんな台詞が。
「ちなみに今日の雪村は恋愛運が最悪らしいので、信じないことにしました。朝から非生産的な告示を受けてひどく不愉快です。もうあの番組は見てあげません。と思ってチャンネルを変えたら、そっちの局では恋愛運が大吉だとおっしゃるんです。もしかしたら人生って、テレビみたいにチャンネルひとつで簡単に変えられるものなのかもしれませんね」
こういう自己言及的な台詞にばかり反応してしまうのもどうかと思うけど、まあ、確かに物語を読むということはチャンネルを変えて違った人生を体験することなのかもしれない。


・「日本で初めて〜をした人は?」と質問されたら、よく分からなくても坂本龍馬と答えればそれっぽく聞こえるというライフハック。「日本で初めてアニメを作った人は?」「坂本龍馬」。ほら、それっぽい。(そうか?)


・TVアニメ版『苺ましまろ』を観てた。これこそ埋もれた名作と呼ぶに相応しい、というか、『らきすた』『けいおん』を通過した現在だからこそ、その先進性がわかる。漫画において『あずまんが大王』が果した役割を、アニメ版『あずまんが大王』の代わりに『苺ましまろ』が果した、と言えるのではないだろうか。アニメ版『あずまんが大王』は漫画の雰囲気を再現しようと努力しているわけだが、それは原作の再現では不可能で、むしろ映画的なものの導入が必要だった。その転回を、『苺ましまろ』が意図せずしてやってのけた。実際、『らきすた』『けいおん』を特徴付ける要素は大体この時点で出揃っている。『苺ましまろ』から『らきすた』への展開は、足し算ではなく引き算。『苺ましまろ』から意味を、繋ぎの部分をそぎ落としていくことで生まれた余白が、ある種の普遍性を生み出しているように思う。
漫画『あずまんが大王』⇒アニメ『苺ましまろ』⇒アニメ『らきすた』という風に継起して、その後が続いていない、というのが現状かなぁ。『けいおん』はむしろ『苺ましまろ』の地点まで戻っているのではないか、と。もちろん純粋な回帰ではありえないわけだが。


・現代においてはじめて「中二病」という病気が生まれたとするならば、それは「中二病」と呼ばれる現象が生じたのではなく、その現象を「病い」と見なす状況が現代において生じたことにこそ注目するべきだろう。それだけ社会への適応能力が重視されるようになった、というか、適応能力を高めなければ生きていけない時代なのだ、と。だから適応能力を欠いた中二病は矯正されるべき「病い」として見なされる。