『機動戦士ガンダム00』についての雑感

ふと思い出したのですが、大宅壮一は「文壇ギルドの解体期」という文章の中で、以下のように述べています。

「近頃の作品は殆ど読んでいない。」ということを、むしろ誇らしげに口にする文壇人が多いが、これほど文壇人自身による文壇その者に対する侮辱があるだろうか。

本当そうですよね。身近な例で言えば「最近のアニメはつまらないから観ていない」などと公言するような人間にアニメの出来を云々する資格はない、ということになるでしょう。
そんなわけで、僕は声を小さく小さくして言いたいと思います。「すいません、最近やることが多くて、あまりアニメを観れてないんです……」。
それでもかろうじて『ダブルオー』は追えているので、今日はその話をしたいと思います(意味のない前置き)。

機動戦士ガンダム00 セカンドシーズン1 [DVD]

機動戦士ガンダム00 セカンドシーズン1 [DVD]

この作品に関しては1年前にも言及しているのですが、そのときは作品の内容を次のように要約しました。

この物語は大別して「ソレスタルビーイング」という組織による戦争根絶を目的とした「大きな物語」(イデオロギィ)と、しばしばその被害者となる人々の「小さな物語」から成り立っています。そして、この両者の比較によって「大きな物語」を相対化してやろう、あるいは「大きな物語」の中にある「小さな物語」を引きずり出してやろう、という意図をはっきり見て取ることが出来るでしょう。

『機動戦士ガンダム00』におけるイデオロギィと実感信仰 - tukinohaの絶対ブログ領域

この要約について、現在でも大きく修正する必要性は感じていませんが、この記事を書いたあと『ダブルオー』は半年のインターバルをとり、その前後で物語の方向性が大きく転換し(理由について邪推することは可能ですが、今回は考えないことにします)、「戦争根絶のための武力介入」という「大きな物語」を巡る闘争が後景に退いてしまったことに注意する必要があるでしょう。「大きな物語」の担い手はソレスタルビーイングから敵役の側へ移り、しかもその「大きな物語」が誰の目にも間違いとして映るように描かれているため、視聴者の関心は登場人物たちのメロドラマにのみ集中させられています。
ただ、方向転換以前においても「大きな物語」がメロドラマに侵食される事態がまま見られていたので、その方向性が強化されたとする方が正確かもしれません。第1期24話に観られる、敵の死にくらべて味方の死を過剰かつ神々しく描く点などは批判されることが多かったように記憶しています。
大きな物語」への執着が薄れた、あるいは最初から深く考えていなかったことを顕著に表す事例としては、第2期17話で起こった軌道エレベータの崩壊が極めて軽く扱われていることが挙げられるでしょう。公式サイトではこの軌道エレベータについて、以下のように説明されています。

化石燃料は枯渇したが、人類はそれに代わる新たなエネルギーを手に入れていた。3本の巨大な軌道エレベーターと、それに伴う大規模な太陽光発電システム。しかし、このシステムの恩恵を得られるのは、一部の大国とその同盟国だけだった。
(中略)
超大国群は己の威信と繁栄のため、大いなるゼロサム・ゲームを続ける。そう、24世紀になっても、人類は未だ一つになりきれずにいたのだ……。

http://www.gundam00.net/story_1st/index.html

つまり、軌道エレベータ太陽光発電という膨大なエネルギィがあるにも関らず、それが上手く分配されないでいることが問題だという設定であり、誰かが豊かになることで誰かが貧しくなることを必然とする「ゼロサム・ゲーム」からはむしろ遠いところにあります。この世界には本来、全員が豊かになるだけの富がある、しかしそれが自分のもとに巡ってこない、だからこそ現実は不公平だと感じられるわけです。軌道エレベータの崩壊というのはこの前提を掘り崩すものであるにも関らず、それをあっさりと受け流し、相変わらず分配にだけ注目しているのはいかがなものでしょうか。そして上手く分配が機能しないのは「復讐の連鎖」が止まらないからだというわけですが、僕にはそれが生活上充足した人間だからこそ言える「上から目線」であるように思えるのです。
それはともかく、どうやって「復讐の連鎖」を止めるかという話が第2期の主要なモチーフになっているわけですが、どうもその答えが「人類の革新」によって他人の気持ちを思いやったり、自分をさらけ出したりすることで相互理解を深める、ということらしい。観れば誰にでもわかることですが。文字通りの意味で「裸の付き合い」が推奨されているわけですね。
もう少し深く考えるために、「日経ビジネスオンライン」上での水島監督のインタビュー記事を参照してみましょう。

水島 相手に対する恐怖があるから、「この人より優位に立たなければ」と思ったりする。優位に立っていれば少なくとも害はなくなると考えるから。相手より優位に立とうとするから、対立して争いになる。
――スタンガンの危険性を想定して自分が備えると、相手もスタンガンを持ち出す、という構図が成り立つわけですが。
水島 人間関係でも国家間でも、あらゆる対立が同じ理屈で起きていると思います。
本当は、その疑念をなくそうという努力が必要だと思うんです。
相手を恐怖に感じるのは、相手のことがわからないからだと思うんですよ。
相手は何を欲していてどんな行動に出るか。欲求や行動の動機がわからないと不安になる。
欲求というのは、「価値観」に基づくもの、ですよね。価値観がわからないというのは、利害関係の対立よりもやっかいだと思いますよ。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20090204/184979/?P=1

ここで示されている認識は、かなりベタな「価値観の島宇宙化」に対する危惧として見ることができます。多用な価値観が乱立し、コミュニケーションが成立しなくなっている。それを何とかして、かつての共同体的世界に回帰させなくてはいけない。と、だいたいこんな感じですね。島宇宙化と島宇宙相互の衝突の間には超えるべき河があり、その河の存在を見落としているとは感じますが、論旨が理解できないわけではありません。インタビューではかなり激しい口調で「匿名で公論を振り回すネット言論」への批判が行われているので、島宇宙の住人=初期のソレスタルビーイング=ネット言論という風に捉えられるでしょう。
極めて現代的な問題を扱っているとは思うのですが、それが失敗に終わるのも、やはり現代の趨勢と言うべきではないかと思われます。共同体への回帰を訴えたところで、それは既に自然なものではなく「あえて」所属するものである以上、他者にそれを要請することは暴力的になりがちであり(全裸にさせられたり)、失われた統合のシンボルをどこから持ってくるかで悩まなくてはいけなくなる。そのためにマリナの歌という不自然なものを持ち出すことになったわけですが、それによって生じる「顔の見えない相手とピンポイントな関心を共有するすることで繋がる関係」とは価値観の島宇宙化のもうひとつの側面に他ならないわけであり、自縄自縛に陥っている感があります。
戦争根絶のために「あえて」戦争をするのと同様に、沙慈がオーライザーに乗るのも、ミスターブシドーが奇妙な仮面を被るのも「あえて」することです。前提として戦争による例外状態が存在するため、それに適応するための「あえて」する行動が必要ということですね。そして、戦争状態においては顔を合わせて会話することも「あえて」することとして扱われます。決して自然なことではない。それは正しいとして、では、「あえて」顔を合わせることの理由が説得的に描かれているかといえば、そうとは言えません。そのため、僕は次のように思うわけです。ダブルオーは価値観の島宇宙化に対抗し、共同体主義的な価値観への回帰を「あえて」することを促した。しかし、それがあくまでも「あえて」することに留まる以上、かえって共同体主義的な価値観が依って立つ基盤の不確かさを証明することになったのではないか、と。
ミスターブシドーを始めとしたキャラクタのあくの強さ、過剰な物語性によって、ストーリィの必然性が感じにくくなっていることで、上記の印象がより強められています。あるいは、意志の強いキャラクタに引っ張られて「あえて」するに歯止めがかからず、思想的基盤がぐらぐらになっている、という言い方も出来るでしょう。