日本近代史について議論する前に知っておくべきこと

歴史を語るということは自分の歴史観を語ることと同義である、と僕は考えています。
ところでその「歴史観」という言葉についてですが、「あの時のAの判断は正しかった/誤りだった」という価値判断のことだと考えられていたり、あるいは「Bはあった/なかった」という事実認定のことだと考えられていたりと、使う人によって意味が変わるため議論にズレが生じる、というのもよくある話。
それに対して僕が「歴史観の定義とは○○だ!お前らはみんな間違っている!」と主張しても、所詮は「自分定義」ですから、何の意味もありません。ただ、仮に「歴史観」という言葉の定義が上に例として挙げたようなものであるならば、歴史観なんて無い方が良いんじゃないの?とも思うわけで。
つまり「Aは正しい。Bは悪い」という価値判断を歴史学に持ち込むのであれば、それは戦前の皇国史観と同じものか、あるいはそれを裏返したものにしかなり得ません。また「あった/なかった」という話も実証性を重んじる歴史学にとっては乗り越えるべき対象でしかないと言えるでしょう。
では、歴史観なんて必要ないものなのでしょうか?
ところがどっこい(古いな)、現代の日本近代史学において問題視されているのが「歴史観なき歴史学」なのです。
近年の「新しい歴史教科書をつくる会」、「従軍慰安婦問題」、「南京事件論争」などなど、時には歴史観という言葉を前面に押したててくるこれらの問題に対し、近代史家は受身的な対応しか出来ていない、これは怠慢ではないか?という批判は前々からありました。しかしそれは決して近代史家の怠慢ではなく、そもそも根本的な部分を批判出来ないだけではないか、ということが段々明らかになってきたのです。
近代史家の小関素明氏は、歴史学が脱色化された原因をマルクス主義の崩壊やポストモダニズムの進展など「近代知に対する拭いがたい不信」に求めた上で、以下のように述べています。

現代の歴史学に見られる無視できない特徴は、人間の主観によって解釈・表現された「歴史」(「記憶」「創造されたもの」「描かれた(語られた)もの」)への関心の偏頗である。(中略)ナショナリズム批判に力点を置くこの潮流は、社会主義体制の現状に幻滅し、それによって資本主義批判の根拠と行き着く先に確信を持てずに自信を喪失しつつあったマルクス主義歴史学に明確な批判の対象を指し示し、贖罪の糸口と活路を与えた。それによって、微妙な確執を残しながらも、一定層の旧マルクス主義者たちの側面的支援を得たことが、この潮流を現在の学会の主潮流に押し上げたことには注意しておかなければならない。


 第2に注目すべきは、国民国家批判とは対抗的な政治的立場にたった新自由主義史観による歴史認識(叙述)の相対性(物語性)への偏執である。その中核的論者である西尾幹二は「歴史は科学ではない。……だから民族によってそれぞれ異なっても当然である。国の数だけ歴史があっても少しも不思議ではない」と躊躇なく断言し、その上で民族の「自尊心」を培養する歴史記述(物語)の立ち上げこそが歴史学の本務であることを力説する。そうした意気込みの下に試みられた「歴史記述」はあくまで生硬な自足的ナショナリズムの縷述でありながら、政治の腐敗、「公共道徳」の低落(→社会問題の頻発)にいらだつ国民の「憤懣のはけ口」ないし自信喪失に対する「癒し」ともなり、一定限度の「支持」を集めることになった。


 これら二つの潮流は、政治的には互いに強固に反目する関係にありながら、歴史とはあくまで「描かれた歴史」「主観の歴史」に他ならない(でしかあり得ない)と見なす点で共通している。両者向かうべき方向性を異にしながらも、ともに歴史相対主義を承認していることは、歴史学地殻変動の留意すべき特質である。
−「岐路にたつ「戦後歴史学」『日本史研究 第537号』より引用−

このように近代史家と偽歴史学者(と彼らが見なしているもの)の両方を否定し、その上で新しい歴史学の建設を始めることを提唱します。すなわち、マルクス主義と共に一度は捨て去った「歴史の法則(あるいは必然性)」について再考していみることです。
むろんそれはマルクス主義への回帰ではなく、歴史を「必然的なもの」と見なし、人と社会を動かしていく「歴史の原理」=「歴史観」とは何なのかということを探求しようとする試みであると言えるでしょう。

もはや近代の「虚偽性」を摘発する作業や、歴史を見る「視線」の複線化に奔走しつづけている時ではない。「虚偽」をしからしめるものは何か。目に見えない原理の中に、もっともリアルな力を感知しうる強靭な主体性がいま求められていると言えよう。
―同上―

まだまだ引用したいところですが、本筋から外れるのでこのくらいで。日本近代史の道を志す人は全文読んでみるべきです。たぶんですけど、半分くらいの人が「俺のことかー!」と思うでしょう。僕は思いました。背中が寒くなりました。
結論として、現在の日本近代史学の問題点は、大局的な「歴史観」を失ったことによる、個別論への逃避と「歴史=物語」の強調に集約されます。そこで、これから自由主義史観なり南京事件否定論なりを批判しようと思うのであれば、ある事件だけを取り出して実証を繰り返すだけではなく(むろん実証性が根幹にあるべきですが)、近代全体を見据えた「必然としての歴史」を提示し、無制限な相対主義にストップをかけることが重要であると言えるでしょう。
言うは易く行うは難し。ですが、何とか実践してみたいなぁ、と。週一くらいで。範囲は日露戦争終結後から太平洋戦争までを予定。期待は乞いません。