『ef - a tale of memories.』が面白い!その4〜総集編をみたよ〜

新作『ef - a tale of melodies.』の放送を週明けに控え、復習を兼ねて前作の総集編DVDを見ておきましょう……というには、若干物足りない作品。何せ元が良いのでぼんやり眺めているだけでも楽しいのですが、肝心のオチがない(具体的には10・11・12話が省略されている)のと、7話の例のシーンがないため、普通に1話から見ないと話の面白さが伝わらないのです。あ、今「DVD1巻から買えばいいじゃない」という天の声(正確には天使の声)が聞こえました。そうだそうだ。

ef - a tale of memories. ~recollections~ [DVD]

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そんな冗談はともかく本題に入りますが、総集編という特性上、あまり書くこともなかったり……。重要なポイントと言えば放送時第2話のラストシーン、海岸で千尋が自身の秘密を告白する場面の演出が大幅に変更されていることくらいでしょうか。放送時に「手抜き」とまで言われた超ロングテイクが、総集編では複数のアングルから千尋を捉える、割と普通のカット割に変わっています。しかし、これはあくまでも「変更」であって「修正」ではなく(ライナーを読む限りでは)、僕も放送時のカット割りの方が優れていると思います。

千尋を凝視する固定アングルの迫力、フレーム外から聞こえてくる「オフの声」が持つ撹乱的効果と画面外の広がりを暗示させる働き。これらの要素が絡み合い、千尋と、千尋を凝視する蓮治は不安を抱えたまま広大な空間に放り出されます。そして、千尋の声は遠くから聞こえてくることによって、いわば、世界の終りを告げる神託のように響くのです。
『ef』はこの「オフの声」がもつ周縁的効果を上手く利用しているように思われますが、しかし、ほんのちょっとフレームを変えればそれが解消されることを知っているかのように、最後には必ず身体へと帰っていきます。例えば墓地で蓮治と千尋が会話しているシーン。蓮治は画面外から千尋を励ますのですが、次のカットでは同じ台詞を泣きながら話している姿が描写されます。これはフィルム・ノワールの悪役が画面外から予言を下すことで自身を偉大に見せかけながら、しかし、一発の銃弾によって倒れてしまうのと同種の面白さではないか、と。先述した海岸のシーンでも、最後には畳み掛けるような風の音とともに千尋の身体が連続して描写され、一気にエンディング(終り)へとなだれ込んでいくわけです。

千尋の話をしたついでにもっと千尋の話をすると、彼女のつけている眼帯は彼女の顔を隠す一方、彼女自身の視界を遮っているということに注目してみる必要があるのではないかと思われます。特に重要なのは、自分の身体の一部が視界から消えてしまうことです。自分には自分自身の姿が見えないけど、他人からは見られている。この格差は千尋の個性を端的に表しています。最初期の設定では千尋は義眼の少女でしたが、七尾奈留の「眼帯萌え」というひとことで義眼から眼帯に変更されたのだとか。さらに言えば隻眼という特徴は昔話において鬼神や幽霊といった「死者」に与えられることが多いのですが、この場合「死者」は必ずしもネガティブな存在ではなく、富や幸福を与える福神として描かれることが多々ある、という点も押えておく必要があるでしょう。死に近いということは、それだけ神に近いということでもあるわけです。


最後にシナリオ関連の話を少し。
『ef』という物語が人間存在の相対性、この場合は将来の自己との関係や恋愛の流動性を強調するものであるという点に関しては、あまり説明を要しないように思われます。エゴの衝突、人間関係の変動、夢の挫折、そういった事件が少年少女たちの本質的な不安を呼び起こすわけですが、その一方で不安に対抗し、ある種の極点へと自己を近づけることにより安定しようとする志向が生まれます。日本の古典的作品においてその極点とは「無」あるいは「死」であることがほとんどですが、『ef』においては「希望」であること、それがこの作品の現代性なのでしょう。詳しい話はまた今度。
重要なのはここからです。『ef』においては「希望」によって包摂される人間関係の相対性、その認識がどのようにして把握されているのかを考えた場合、人間の組み合わせとその相互認識によるものだけでなく、時間の経過によって何かが失われることを反復して描くこと、つまりある程度の広がりをもった時間の中で相対性を強調する方法が取られています。
まず前者の方法については、宮村みやこ新藤景の対立が両者の広野紘に対する関係を変化させ、新藤景から新藤千尋へと送られたメールが千尋と麻生蓮冶との関係を変化させたことなどがその典型的な例です。ここには、人間の力によって人間の変化を描こうという、本来の意味での群像劇らしい態度を見ることが出来るでしょう。後者の方法はそれに反し、広野紘から堤京介、麻生蓮冶、久瀬修一とまっすぐ流れる時間を追いながら、広野において実現した「夢」が久瀬において破綻する姿が描かれる、つまり時間の経過という非人間的な力によって人間存在の相対性を描いているのです。それをひとことで表すなら「無常」の感覚であり、構成においては絵巻物と近似するものであると言えるでしょう。その意味でも、『ef』という物語は本質的にハーモニィではなくひとつのメロディなのです。
しかし、『ef』が群像劇を標榜し、人の意志を称揚する以上、何らかの方法によって上記のようなクロノス的時間感覚に手が加えられることもまた必然であると言えるでしょう。原作においては例のトリックと合わせて「ひとつの物語の終わりが次の物語の端緒となる」という絵巻の典型的な構成をわずかにずらした各章のつなげ方によって時間のモザイク的感覚を強調しましたが、アニメにおいては同時性の感覚を巧みに利用した最終回エンディングがそれに当るのだろう、と僕は思います。アニメでは蓮治と千尋の物語はいったい何月ごろの話なのか、結局わからずじまいでしたよね。後編で明らかにするつもりがあるのかな……。