『ef - the latter tale.』論:補遺

前回の記事のコメント欄でも少しだけ書いたのですが、この作品、男性キャラクタでも基本的には声が当てられているのですが、それが主人公になると声が無くなるんですよね。
例えば第3章の主人公・麻生蓮冶には声が当てられていません。しかし第4章に入り、彼が主人公ではない脇役になると突然声が当てられるようになる。これは何故?一人称、モノローグの部分は声が無いほうが感情移入しやすいのだ、という理屈も考えられるでしょうが、それだと第4章におけるもうひとりの主人公・羽山ミズキに対しては、彼女視点のパートでも声が当てられている理由が説明できない。少なくとも、物語を「鑑賞させる」ことに力点を置いている『ef』でこの理屈は通用しそうもありません。
……なんて、さも「理由がわからない」みたいに書いてみましたが、本当の理由は薄々わかっているのです。
「男性主人公に声が入ると、えっちぃシーンが安物のAV(オーディオ・ビジュアルにあらず)みたいになるから」
これに尽きるでしょう。もはやエロゲの根源的な限界といっても過言ではありません。
しかし、実際に『ef』の男性声優の演技を聴いた人なら同意していただけると思うのですが、主人公に声があるというのも悪くないんですよね。感情移入を促すためには自分のペースで読ませた方が良い、というのもひとつの考えですが、きちんと「間」を確保した声の演技を聴くと、それが絶対的な考えではないことがわかります。家庭用に移植する際にはぜひ全キャラクタのフルボイス化をご検討いただきたく。
とはいえ、えっちぃシーンを省くと、人生(笑)なゲームみたいに「どんな話も奇跡でオチをつけることは知っていますから、今さら処女懐胎くらいでは驚きません」という現実感の欠如を生みかねないので、色々と難しいのかな……。


それと以前、携帯電話についての記事

新海誠の諸作品、あるいは『ef』において描かれた携帯電話をめぐる問題は、常に携帯電話の「同時性」を前提としてきました。携帯電話によって距離がゼロになることと、携帯電話によっていつでも相手と連絡を取ることができること、本来であればこの2点は別のこととして考えられるべきですが、なぜか一体のものとして現れます。そして、その同時性が崩れるときに携帯電話がドラマの核となるのです。

と書きましたが、『latter tale.』でも携帯電話とPCメールという違いはあるにせよ、結構当てはまりましたね。ただ、僕が上で言う「ドラマ」を悲劇的なものとして捉えていたのに対し、『latter tale.』はその肯定的な側面を汲み上げた。この違いはものすごく大きいと言えます。
携帯電話やメールに同時性を求めることは、「まーぜーて」といって遊び仲間に入れてもらう日本らしい考え方だと思います。ミックス、ひとつになりたいという願望ですね。それとは異質なあり方として、欧米流のジョイン、固体として独立しながら繋がるという関係が存在するわけで。
『ef』は新藤千尋という他者と違った時間を生きる少女を通して、「混ざらない」関係、あくまでも他者と他者が気遣いによって繋がる関係というものを描き出したように思われます。


あとは思いつくままにつらつらと。
・私服のバリエーションが欲しかった。こういうとき学園ものは便利だよなぁ、と。
・そうえいば『水夏』以来、七尾奈留の描いた男性キャラを見ていないですね。あの、ことごとく不細工な(ある意味リアリティのある)男性キャラの顔が懐かしくもあり、忘れたくもあり。
・結局「ef」には一体いくつの意味があったんだろう?主題歌各種、「永遠のおとぎ話」、「e」「f」と隣り合ったアルファベットであること、これくらいかな?
・デモムービーを見たときの予測は大外れでした。忘れて。