ヤン・シュヴァンクマイエル『悦楽共犯者』

ヤン・シュヴァンクマイエル 悦楽共犯者 [DVD]

ヤン・シュヴァンクマイエル 悦楽共犯者 [DVD]

シュヴァンクマイエル監督の長編第3作。
これもまたストーリィの説明しづらい作品なんですが、簡単に言えば「楽しいこと」「気持ちの良いこと」をするために孤独な情熱を燃やす人々を描いたもの。孤独だけれど、知らず知らずの内に他者の「悦楽」に関わっている。だから『悦楽共犯者』。小説だと小林恭二の『ゼウスガーデン衰亡史』が近いですね。本当に馬鹿馬鹿しくてくだらないのですが、そこに才能の光を見ずにはいられない、そんな作品です。
登場人物のひとりは鶏のマスクを自作し、それを被って「善良な女性に襲い掛かる悪の怪人ごっこ」を楽しむのですが、このマスクが凄い。粘土をこねて形を作り、その上に雑誌から切り抜いたヌード写真をべたべたと貼っていく。そうして出来上がった肌色のモザイクは、離れてみると確かに鳥の肌に見える。しかし、さらにその上を鳥の羽で覆ってしまうので、せっかくのモザイクアートが全く見えなくなってしまいます。見えないところを凝るって、それ何て江戸っ子?と思いました。
もうひとつ特徴的な点として、映像の特性を活かしたナンセンス・ギャグが使われていることが挙げられるでしょう。例えば、ある登場人物はニュース番組の女性アナウンサに欲情し、テレビ画面に映る彼女に向かって接吻を繰り返します。そこで突然、画面は激しく流れる河の映像に切り替わり、それと同時に画面から水が溢れ出し、男は水浸しになってしまう。
60年代、70年代の漫画ではキャラクタがコマの枠線を突き破って移動したり、吹きだしの中に現れたイメージが現実のキャラクタと同じ次元で行動したりといったメタレベルでのギャグが盛んに描かれてきましたが、上に挙げた『悦楽共犯者』のギャグもそれと良く似ていて、ジャンル(この場合は映像)に対する批評意識からそれが生み出されているように思われます。つまり、映像作品において「テレビ」という物体を映す場合、「テレビの中の映像」も「テレビを見る男」もカメラの前では2次元の映像という点で平等であり、僕たちがそれを区別するのは「ざらざらした画面」や「テレビという記号」と僕たちとの間の「約束事」でしかない、という意識ですね。
映像に対するこういった冷めた意識は、「現実と夢の混同」という主題をたやすく導きます。そしてクライマックス。それまでの認識をひっくり返す、鮮やかな終わり方だと思いました。