もうひとつのブログを更新しました。今回はちょっと手抜き。
http://d.hatena.ne.jp/tukinoha2/20080517
以前はどんなときにでも適応できる「透明な知」を最上のものだと思っていましたが、古臭かったり偏狭だったりする「知」を、その限界を了解した上で活かしていくことが重要なのだ、と最近は思うようになりました。そんなわけで、とりあえず世阿弥でも読んでみるか、と。

政府の教育再生懇談会(座長・安西祐一郎慶応義塾長)は17日午前、都内で会合を開き、携帯電話の有害情報から小中学生を守る対策について討議し、今月末にまとめる報告書に、小中学生には「教育的な観点から携帯電話を持たせない」との項目を明記することを決めた。

「小中学生には携帯電話を持たせない」報告書に明記

こういうのをパターナリズムと言うのでしょうか。
一般論として、教育とはそもそも「知をもたせること」であり、それを与えないこと、例えば犯罪の手段や動機となるような危険な情報を子どもの周囲から排除しようという考えは教育の原義に反する、退嬰的な発想であると僕は考えます。
もちろん、悪いことをするにも「知」は必要となるし、「知」を持つがゆえに犯罪に巻き込まれるという事態も一般的に見られることです。また、「悪いことをしてはいけない」と繰り返し復唱させたところで、犯罪を予防することも、後悔させることもできません。そこで、こういった場合に必要なのは「命題知」を与えることではなく、より主体的で建設的な知の形を模索するよう促すことである、と言うことができます。
猫を暗闇の中で育て、明るい場所ではただ受動的に他の猫とつき合わせると、その猫は視覚的に環境を制御できなくなる――つまり、周囲から刺激を与え、主体的に動き、失敗をフィードバックするという行為を繰り返さないと、ちゃんと鳥を取る猫に育たないのだという実験が存在します。人間知の在り方というのもそれと似ていて、とりあえず周囲の環境に適応するよう動く。それによってまた何らかの問題が生じたとすれば、その都度「漸進的に」解決する。それでいいじゃん、と。