『School Days』に関する雑感

School Days 第6巻(初回限定版) [DVD]

School Days 第6巻(初回限定版) [DVD]

DVDが出たので最終話を改めて見てみました。やっぱり凄い作品ですよ、これ。あの頃は放送自粛やエログロの話題ばかりが先行していましたが、そろそろ冷静な作品論が書かれても良いのではないかな、と。それだけの価値がある作品であると僕は思います。


たぶん誰かが指摘しているでしょうが、誠が刺し殺されるシーンはヒッチコックの『サイコ』と極めて良く似ていますね。振り下ろされるナイフと苦悶の表情を見せる誠を交互に描きながら、ナイフが誠に刺さる瞬間は描かない。その意味で『School Days』は、規制との戦いの中で磨かれてきたサスペンス映画の伝統を受け継ぐ、非常に優れた作品であると思います。そして「中に誰もいませんよ」という例のシーン。あのシーンの重要性はいくら強調してもやり過ぎるということはありません。
「物体の視点」というアイディア自体は決して珍しくありませんが、大抵の場合それは新鮮な構図や動きを表現できるといった「視線」の面白さを目的にして採用されるもので、「視点」それ自体の存在を強調するのに使われた例というのは初めて聞きました (僕が知らないだけで、元ネタがあるのかもしれませんが)。
これも「縦の構図」のひとつなんですけど、先日の記事に対する「構図の意味はあくまで文脈の中で決まるものだ」という批判を思い出します。


もうひとつ気になったのは、作中でのメールの使われ方。これも誰かが指摘していたような。
携帯電話の普及以降、『君の名は』的なすれ違いのドラマを描きにくくなったという話をよく耳にしますが(例が古いな)、不可能になったのは同じ時間・同じ場所という「点」のレベルにおけるすれ違いであって、時間や空間の広がりをもった「面」のレベルにおけるすれ違いはかえって描きやすくなったように思われます。
誰かから届いたメールを読んでいるとき、そのメールを書いた誰かが今何をしているかなんてわからないし、逆に、どんなタイミングでメールが読まれるか書き手にはわからない。そういったメールの特性を生かすことで、コミュニケーションが取れているという思い込みや、それが非同時的なものであるために起こる現代的な「すれ違い」のドラマを描くことが可能になるではないかな、と。『School Days』はその辺が非常に上手い。
別の書き方をすると、コミュニケーションを可能にする要素というのは「何を話すか」ではなく、コミュニケーションの「場」に参加することが出来るかどうかであり、携帯電話など技術によるフィルタを通すことでそれがはっきりします。極端な話、「場」に参加してさえいれば、相手が話を聞いているかどうかはたいした問題にはなりません。携帯電話に向かってひとりごとを言っているシーンがありましたけど、つまりそういうこと(どういうことだ)。


それと、これは以前の自分が書いた話ですが、主人公を含め「視聴者の分身」と呼べるキャラクタがどこにも存在しない、独立性の高い話が最近増えてきたように思われます。『School Days』もそのひとつ。ノースロップ・フライという人によると、現代はアイロニィの時代で、次は神話の時代が来るそうですが、『School Days』はアイロニィっぽいですね。主人公に対する感情移入を求めない辺りが。


うーん、上手く書けない。本当に「雑感」になってしまいました。反省。