アニメにおける「縦の構図」と「垣間見」の精神

以前からこのカットが気になっていました。

CLANNAD』第2話より、近景のクローズアップと遠景とを組み合わせた構図。上のカットの場合、視聴者に見せようとしているのは明らかに中央奥の人物であるにも関わらず、それを直接見せるのではなく、前方の遮蔽物越しに「垣間見」させている。このような構図を一般に「縦の構図」と呼びますが、これはどういった狙いで使われているのか、またどのような文化的背景から生み出されたのか、ということについて考えてみたいと思います。


最近のアニメ作品において、この「縦の構図」を多用したものとして『ef - a tale of memories.』が挙げられます。

前方の遮蔽物とにの比較によって、奥に描かれている人物との距離感、その小ささが強調されています。ここで僕たちはまず、二次元のアニメからどのようにして三次元の情報である「奥行き」を感じているのか、ということについて確認しておく必要があるでしょう。
『感覚・知覚心理学ハンドブック』で提示されているのは以下の要因です。
1.視対象の大きさ
2.視対象の直線的遠近
3.視対象の重なり
4.視対象の明瞭さ
5.視対象に付属する影
6.視対象の“きめ”の密度。
これらの要因についてひとつひとつ解説することはしませんが、代わりに、それらを上手く活用した例として『ef』第11話から以下のカットを挙げておきます。

長く長く伸びる影。それでもカメラの位置までは届かない。近景の格子が存在感を示し、人物の姿は不明瞭。このカットでは、あからさまに視聴者と登場人物との距離感、そして彼らの物語を遮蔽物越しに「垣間見」ているという印象が強調されます。


そこで問題となるのは、なぜ僕たちは物語を縦の構図によって「垣間見」なくてはいけないのかという根本的な謎です。しかもこの「縦の構図」は、隠された事実が明らかになるという決定的なシーンにおいてしばしば利用されます。

CLANNAD』に戻って、第18話より、藤林杏が失恋を悟るカット。このカットでは同時に、それまで抑えられていた彼女の恋愛感情がむき出しとされます。そして、手前を歩く「前景」を配置することで彼女との隔たりを感じさせる。複数のアクションが同時に進行することから「マルチレベル・アクション」とも呼ばれる手法です。
この「縦の構図」から僕が連想するのは、『古事記』に描かれるイザナギイザナミの神話です。黄泉の国でイザナギは、見ないでくれと頼まれたにも関わらず、隙間からイザナミの姿を「垣間見」たことで彼女の逆鱗に触れてしまう。『鶴の恩返し』では、機織している姿をやはり「垣間見」たために鶴は去ってしまう。写真に取られると魂を抜かれてしまう、という伝承もあります。
近代の権力を「見られずに見る」システムであると言ったのはミシェル・フーコーですが、一方的に見る(覗き見る)ことはしばしば見られる対象の価値を高め、そこに真実があるという幻想を僕たちに与えます。ヒッチコックの名作『裏窓』において映像化されたのは、まさにその幻想であると言えるでしょう。
定義上「縦の構図」とは異なりますが、『true tears』第6話においても、ある重要な事実の告白シーンではやはり「垣間見」る形を取っています。

真実は正面から見ることが出来ず、常に離れた場所から「垣間見」るという形でのみ知ることが出来る。そのような思想が多くの映像作品から見出せるのではないか、と僕は考えます。


この「縦の構図」は何も映画やアニメといった映像作品に限ったものではなく、日本の芸術全般において用いられてきました。例えば、古い日本庭園において「借景」と呼ばれているものがこれに当たります。

京都の円通寺から、比叡山に向けて撮った一枚。ここでは比叡山が単なる「風景」ではなく、近景である樹木との関係によって庭園の一部として取り込まれている、という点が重要です。
厳密には、僕たちは近景と遠景を同時に見ることはありません。近景から遠景へ、遠景から近景へ。両者を見比べることで奥行きを確認する。この作業によって視線に「動き」が生まれます。「動き」をその根源的な要因とする映像作品が「縦の構図」を取り入れたことは、ある意味では必然的な出来事であったと言えるのではないでしょうか。


[2009年7月21日追記]
ロラン・バルトの写真論『明るい部屋』を読んでいたら、この「縦の構図」論を上記の内容とは別の方面から補強してくれそうなところを見つけたので、少し引用しておきます。どちらかと言えば、京アニ高雄統子さんが多用するような「マルチレベル・アクション」の説明としてふさわしいかな、と思いますが(記事内でも「縦の構図」と「マルチレベル・アクション」を一緒くたに扱っているので気にしない)。

「ごく普通には単一のものである写真の空間のなかで、ときおり(といっても、残念ながら、めったにないが)、ある《細部》が私を引きつける。その細部が存在するだけで、私の読み取りは一変し、現に眺めている写真が、新しい写真となって、私の目にはより高い価値をおびて見えるような気がする。そうした《細部》が、プンクトゥム(私を突き刺すもの)なのである。
(中略)
ウェニシングがニカラグアの兵士たちを撮影したとき、修道女たちがたまたま後を通りかかり、《そこにいた》。現実の観点(つまり、おそらく「撮影者」の観点)から見れば、この《細部》の存在は、無数の因果関係によって説明される。(中略)しかし「観客」である私の観点から見ると、この細部は幸運にも理由無しに与えられている。この画面は決してある制作上の論理によって《構成》されたものではない。この写真はなるほど双数的だが、しかしその二重性は、古典的言説においておこなわれるような、いかなる《展開》の原動力ともなっていない。それゆえ、プンクトゥムを感知するためには、いかなる分析も役に立たないだろう(しかしおそらく、このあと見るように、思い出してみることはときとして役に立つだろう)。プンクトゥムを感知するためには、映像が十分に大きく、映像を子細に検討する(それは何の役にも立たないだろう)必要もなく、ページいっぱいに示された映像を真正面から受け止めること、これだけで十分である。」
――『明るい部屋』56〜57頁――

例えば報道写真のように、ある部分を強調し、単純化(単一化)した写真は、われわれに「一般的関心」を引き起こします。しかし、それではすぐに忘れられてしまう。本当に力を持つ写真というのは、読者を納得させるよりもむしろ立ち止まらせ、写真に写っているものを越えて行くような思考へと誘導するものである、とバルトは言います。そのきっかけとなるのが「プンクトゥム」ですが、プンクトゥムは「汚れた爪」であったり「通行人の影」であったりと、細部であることがほとんどです。それは、細部であるがゆえに凝視されることでどんどん拡大していくからだ、と。
作者の意図へと還元されない(し切れない)偶然性をもった「細部」がわれわれを立ち止まらせ、写真全体の価値を高める。このようなバルトの論理を、構図論の中に導入できないかなー、と思ったので引用してみました。もっとも、バルト本人に聞いたら「考えるな!感じろ!」と怒られそうですが。