和解の不可能性と対立の否認

自転車に乗りながらこんなことを考えた。
ギリシア悲劇でいうところの「デウス・エクス・マキナ」は、物語の登場人物相互の対立が酷くなりすぎて、まっとうなやり方では和解不可能だと思われたときにあらわれる。本当に和解が不可能かどうかはさておき、少なくとも主観的には不可能だと思われたときに、対立そのものを無化してしまうものとして出てくるわけだ。
そこで連想したのが『マクロス』の話。『宇宙戦艦ヤマト』のように初代マクロスでは地球人と異星人との「和解」が描かれるわけだが、『マクロスF』において描かれたのは人間とバジュラの「和解」ではなく、本当は敵対なんてしてなくて、敵だと思い込んでいただけだった、という対立そのものを無化するものだった。これってまさに現代の「デウス・エクス・マキナ」ではないだろうか。
そう考えると、一見楽天的に見える『マクロスF』こそが、『ヤマト』や『初代マクロス』よりもずっと敵対するもの同士の和解の難しさを感じていた、と言えるのではないか。敵対するもの同士が、敵対することをやめて和解することは難しい。だからこそ、「最初から敵対なんてしていなかった」というすれ違いの物語が要請されるのだ。『マクロスF』に限らず河森正治監督の作品にはこういった展開が頻出するので、ある程度は作家性に還元されるのかもしれない。
ただ、「対立の否認」というモチーフをもう少し広く解釈すると、戦争ではなく日常生活を描いた作品のなかにもそれを見いだすことが出来る。例えば『D.C.〜ダ・カーポ〜』。この作品についてはanteros氏がすでに詳しく書かれているが、
http://d.hatena.ne.jp/anteros/20071007
最終回の「人生はゲームみたいにリセットできないというけれど、本当にそうだろうか。躓いてもまた、ダ・カーポのように最初からやり直せばいい。俺はそう信じたい。それは、決してゼロからの出発ではないはずだから」という台詞に象徴されるように、物語は恋愛の三角関係の帰結として生じるさまざまな喪失を否認する方向へと進んでいく。大切な人との別れは喪失の感覚を引き起こすが、『D.C.』においてそれは本当の喪失ではない、たとえ一時的に別れたとしても、自分が忘れない限りそれは失われていない(「ゼロからの出発ではない」)、と。
D.C.』のテーマとは、無意識のうちに誰かを傷つけ、対立関係を引き起こし、大切なものを喪失してしまう。その制御しがたい攻撃性とどう付き合っていくか、というものだった。それが無意識の働きである以上どうしようもないわけで、世界との和解の可能性をどこにも見いだすことができない。『ダ・カーポ』のあのラディカルな発想(実は何も失われていないのだ)は、そういう切実さの上になりたっていたのではないだろうか(このラディカルさをあえて封印したことで逆の方向でラディカルさを発揮したのが『School Days』だろう)。
しかし、ここがまさにanteros氏の『D.C.』批判の重要なところだが、主人公がたとえ「ゼロからの出発ではない」と過去を引き受けていく決意を固めたとしても、誰かが死んでしまったことに伴う喪の感覚や、(ヒロインのひとりがそうであったように)誰かを傷つけてでも幸せになりたいというような負の情念まで引き受けていくことが含意されているわけではない。対立の否認によって封じ込められた負の情念、それが折に触れて噴出すること、「ヤンデレ」といわれるキャラクタ類型あるいは物語の源泉はその辺りにあるのではないかと思う。
何にせよ、こういった初期村上春樹的な「喪の作業」をどう組み込んでいくか、ということがアニメにおける現在的な問題だと思う。