『ef - a tale of memories.』が面白い!その3〜繰り返される「おとぎ話」〜

ef - a tale of memories. 6 [DVD]

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その1その2と演出に重点を置いて話してきたので、今回はストーリィ構成について。
『ef』という物語について考えるとき、真っ先にその舞台である音羽という街につきまとう違和感に思い当たります。
  
ヨーロッパ風の家々が立ち並び、少し歩けば廃墟に行き当たる。道路を歩く人もまばらで、生活感というものが欠けている。というより、意図的に排除されているため、そこが物語を紡ぐために「用意された」舞台であることを思い知らされるのです。
タイトルに含まれた「tale」という言葉の意味を考えるまでもなく、「おとぎ話」は閉じられた世界の中で進んでいきます。物語の主題においても、千尋との関わり合いの中で「夢を探す」蓮冶、周囲との軋轢に苦しみながら「夢を追う」京介、漫画家として「夢を叶えた」紘、という風に一本の線で繋がっている。

文字通り「キーアイテム」として描かれる屋上の鍵。代々受け継がれていくというそれは、同じ物語が永遠に繰り返されることを象徴しています。夢を見つけた蓮冶はやがて京介のように周囲と衝突し、夢を叶えた京介は紘のように新しい夢を見つける立場になる。紘もやがては……。
という風に、個々のキャラクタは独立した人格を持つと同時に、より広い対象を示す「典型」でもあります。そのようなキャラクタによって描かれているのは、「現実」という名の、終わりのないおとぎ話です。終わりのように見えるそれは「区切り」でしかなく、ひとつのステップをクリアした少年と少女は、新たな困難に自ら足を踏み入れる。

「ねえ、おいで。はやくここまでおいで。寂しさは、ここにあるよ」


主人公のひとり、広野紘について。
彼は学生であると同時に漫画家、さらに自分を慕う宮村みやこ新藤景に囲まれています。彼はその全てに対して「選んだからには責任があるんだよ。一度関わったことを、無かったことにして逃げるなんて、出来ねーよ」(第9話)と考え、結果、全てを失いそうになりました。そうした経験を通して「一番」大事なものを選ぶことを覚えていく、というのが物語の骨子。
「選ぶ」立場の話というのは全くありふれていて、原作ではその後に続く(そしてアニメではカットされた)京介と景の物語に比べれば大したことはない、と僕は思います。アニメでは、紘がみやこを選んだところで物語は終わりますが、選ばれなかった景にとってはまさに苦しみの始まりでもあるわけです。
君が望む永遠』を例に出すまでもなく、恋愛ものでは主人公の決断というか選択をドラマチックにしようとするあまり、選ばれなかった女性の人間味が急に薄れるという傾向があって、アニメの『ef』も若干そういうところがあったかな、と思います。エンディングでいきなり幸せそうな景を見せられても、何だかなぁという気が。ぜひ第2期を作って、エンディングに至るまでの空白を埋めて欲しいですね。原作の京介と景の物語はまさに「選ばれなかった人」の話なので。
ただ、第10話で紘が再び「一度関わったことを無かったことにして、捨てられない」と言った後の、雨宮優子の台詞が上記の問題に対する作り手の意識を感じさせます。

「捨てるのではありません。貴方が捨ててもらうんです」

地味ですが、『ef』の送るメッセージを非常に的確に表した台詞であり、このことからも『ef』における最重要人物は新藤景だと言えるのではないでしょうか。


続いてもうひとりの主人公、麻生蓮冶について。
紘の物語が「みやこ」と「漫画家」という夢のために「景」と「学生」を失う話だとすれば、蓮冶の話は「小説家」と「千尋」という夢を獲得するまでに至る話です。
獲得と喪失。この違いを端的に表すのが以下のカットではないかと。
  
まずは紘。進路希望の用紙を紙飛行機にして飛ばしてしまう。

一方、最終話において蓮冶の手元では、夢の書き込まれた進路希望の用紙が提出されるのを待っている。こうして送られた夢が、いずれ紘のそれと同じ運命を辿ることを想像させます。
それと第11話のラスト、千尋が自分の日記を空に放つシーン。ここと前掲した紘のシーンとの類似を指摘しておきましょう。
  
紘と千尋は良く似ています。どちらも夢を叶え、その後に全てを失いそうになる。みやこと蓮冶も似ていますね。どちらも相手に忘れられることを恐れている。
紘とみやこの物語、そして蓮冶と千尋の物語。この両者は「記憶」というテーマで紡がれた同じ物語を、逆の視点から見たものであると言えるのかもしれません。


火村夕と雨宮優子、この良く似たふたりについても少し。
  
第1話に見られるこの2つのカットにおいて早くも、このふたりがどちらも主人公たちにアドヴァイスを与える「年長者」としての役割を与えられていることが明示されています。しかし、それ以外は原作から得られる情報を総合しても
・ふたりがかつて深い関係にあったこと。
・ふたりが別れてしまった理由と、音羽に残る廃墟に何らかの関係があること。
・ふたりが再会出来た理由と、物語の本筋とは何らかの関係があること。
これくらいしか分からない。
アニメは火村が優子のいる教会を訪れたところで終わりますが、説明不足というか、やや唐突な展開と言わざるを得ません。彼らの関係はまだ公開されていない原作第4章を待たなければわからないわけで、無理をして彼らの物語を組み込む必要はなかったのではないか、と思います。


原作ファンとして一番面白かったのは、原作のバッドエンドが話の中に組み込まれていたことですね。第10話でみやこは一度、紘に対して「さよなら」を告げます。原作でも同じようなシーンがあるのですが、そのときの紘は呆然と「俺は何を間違えてしまったんだろう……」とつぶやいて、そのままバッドエンド。その流れを知っているだけに、アニメ版での紘の活躍は余計に格好良く見えました。

原作のエッセンスを過剰なまでに詰め込んだアニメ版『ef』。それは、上述した火村と優子の物語のように全体の流れから浮き上がって見えることもありましたが、概ね原作ファンの予想を良い意味で裏切る、挑戦的なものであったと思います。