御影『ドリームノッカー―チョコの奇妙な文化祭』についての雑感

「あの世界が成り立っている前提は、あくまでも現実の世界で、そうであったらいいなと思う裏打ちとなる経験が必要なんだ。改変を願うなら、改変するべき元の世界が必要になる。その事実だけはどうしたって消えない。世界は表裏一体だから――それは弱さで、だから希望だ。痛みは人を成長させる引き金のひとつだからね」
(中略)
「痛みがなければ何も分からないのか?」
(中略)
「もちろん、それも正しいけれど、間違ってもいる…もうひとつの可能性がある。こうなれたらいいなという、よりよい状況を望む気持ちさ。それは未来だ。過去じゃない。想像には力がある。その力が現実において最初の一歩を踏みださせる。――決して悪い力が足を進ませるわけじゃない。たとえ結果が間違っていたとしても、よりより未来のための一歩の価値は揺るがない」
 ‐御影『ドリームノッカー』247〜248Pより‐

ドリームノッカー―チョコの奇妙な文化祭 (電撃文庫)

ドリームノッカー―チョコの奇妙な文化祭 (電撃文庫)

ef - the latter tale.』を久しぶりにやってみたので、近いうちに改めて感想を書いてみようと思っています。ただ、僕の最も好きなゲームであるだけに、生半可な記事は書きたくない。時間をかけて書こう、というわけで、周辺部分からちょっとずつアプローチしていくことにしました。そこで1年半ぶりにこの小説を読み返してみたわけですが……。
面白い。
記憶していた以上に面白い作品です。そして、当時の自分は全然読めていなかったな、とも。
主要なモチーフは「夢」であり、「意志」についての話である『ef』と共通する点も多くあります。大まかなあらすじは以下の通り。
演劇部の一年生、チョコは今度の文化祭で上演される芝居「トイボックス」の主役に抜擢されますが、本番が近づくにつれて奇妙な出来事が頻発。主人公チョコは親友の夢野ほとり(2人ともあだ名)と共にいやいや事件の調査を開始します。ところが、次第に事件はファンタジーの度合いを強め、最終的には作中劇である「トイボックス」と物語内の現実との境界さえも揺さぶられていく……という話。
夢と現実を反転させる、という点ではミステリィ的な作品であり、むしろありふれた内容であると言えるでしょう。それにも関らずこの作品が面白いと言えるのは、ただ単に夢と現実を行き来する姿を描くだけに留まらず、両者の遠さと近さを認識した上で改めて、現実の世界において夢を語ることの意義、そして希望を示しており、それが物語の形式と密接な関係を持って私たちの前に現れてくるためなのです。
「夢」にはふたつの意味があります。こうだったらいいな、という意味の夢と、寝ているときに見る夢。違うもののようで、共通する点もあります。寝ているときに見る夢も、現実の願望が投影されたものだから。冒頭に引用した箇所にその考えが端的に現れていますが、夢の世界で夢(望み)を語ることは逃避ではなく、現実において足を前に進ませる力になるのだ、と。
『ef』において描かれたのは「絶対に正しい答えがないということ、それが希望である」という逆説的な観念でした。僕にはまだこの観念を展開していくだけの準備が出来ていませんが、絶対に正しい答えがないからこそ、人は選ぶことが出来る、幸せになるために。その事実に最大の価値を見出す御影氏にとって、完結した物語は、完結しているが故に、物語としての価値が損なわれたものとして映るのです。冒頭の引用部に続けて、物語の敵役は以下のように返します。

「なるほど・・・君の言葉は非常に正しい。強い言葉だ。しかし、多くの人間がそんな心をすでに失っている。真剣さ、誠実さなど、遠い昔に消えてしまった化石のようなものだ。いつかは見つかる、いつかは目覚める、いつかはやる、自分にできることをするだけでいい、他人とは違う・・・そんな陳腐な言い訳ばかり口にして、言い訳だって気づいているにも関らずなにもせずに生きてやがる。(中略)そうやって物語も本来の意味を殺された――前に進むために夢を語るやつは死んでいった。今では、なにかを成したその世界そのものをくれてやるしかない。惨めな道化の役割しか残されていない」
-前掲書248〜249Pより-

これは、そんな「終わってしまった物語」を終わらせるための物語。明日目覚めるための夢を見る物語。
表紙や挿絵のライトノベルした印象とは少し離れた、実はメタで観念的な作品なので、いくつか書評を見ましたが、肯定論と否定論、大きく評価が分かれています。作者自身も「あわない人には、とことんあわないだろうな〜」と書いていることですし。
ただ、僕自身としては楽しく読ませてもらいました。実に御影氏らしかったな、という感じ。説明が少なくて筋を把握するのに苦労しますが、それさえも含めて「らしい」と思います。東京―大阪間の新幹線の中で読み飛ばすには、あまりに惜しい内容ですね。
もうひとつだけ、私がどうしても外すことは出来ないと考える御影作品の魅力について語っておきます。それは、登場人物たちの持つ、繊細な「痛み」の描写です。キャラクターの内面を描くために持ち出されるエピソードのひとつひとつが、本当にささやかなのですが、それゆえに共感できるものとなっています。
御影氏の作った物語の中で一番印象に残っているのは、『水夏』第二章の、本筋とは何の関係もない、主人公の回想シーン。
幼い頃に両親を亡くし、妹と2人で暮らす主人公。あるとき、妹が遠足に出かけるというのでお弁当を作って渡します。ところが、帰ってきた妹のお弁当箱は、まるまる食べ物が残ったまま。

後で考えたが、妹は他人のお弁当に、嫌というほど、「母親」とか「家族」と言うものを見せつけられたのだと思う。
その時の僕は、自分の弁当と同じように、見栄えなんか気にしないで、美味しそうなものだけを詰め込んでいた。
小学生の妹が、帰り道に空腹と寂しさで泣いていたのだ。
それも、理由を聞いても「楽しかったよ」と答えるような始末である。今もって、妹はその時に何があったのか語ろうとはしない……。
その晩、僕は泣いた。
記憶にある限り、最初に泣いた夜だ。
布団の中で歯を食いしばりながら、あまりにも悔しくて、はじめて泣いたのだ……。
 -CIRCUS『水夏』第二章より‐

物語世界の、作品構造の風呂敷はどれだけ広げても、人物の描写はあくまでささやかで内的な部分を描くのが御影氏の優れた点です。ある意味ではわかりづらい作品ですが、ぜひ繰り返し読むことをオススメします。構造が理解できるようになると、ぐっと面白くなりますので。