『Dear My Friend』―正直な嘘つきたちの物語

アイツと俺は、「友達」で、「兄妹」みたいな関係。
それならば、かろうじて許容範囲内だ。
俺が麻衣に対して抱ける感情は、その二つだけ。
それ以外の感情は、危険だと思うから。
気まずくなったら、アイツはここに居づらくなってしまう。
居場所が、無くなってしまう。
どんな時でも安心して側にいられるのは、友人と家族だけだから。
…だから、
だから、女の子として、意識してはいけないのだ。

「男と女の間に友情はあり得ない。情熱、敵意、崇拝、恋愛はある。しかし友情はない」
Dear My Friend』のOP前に挿入される言葉です。
それは嘘だ、と僕は思います。『Dear My Friend』という物語にしても、基本的に恋愛が友情へと変化することは出来ないということを示しているだけで、友情が維持できないと主張しているわけではありません。事実、主人公と、その時々のメインヒロイン以外のヒロインとの関係は友情そのものです。
しかし、この言葉が妥当性を持つとすれば、それは過去を振り返った時でしょう。「今、僕は彼女が好きだ。あの時は気付かなかったけれど、僕は以前から彼女が好きだったのかもしれない」。そんな風にして、現在の気持ちが、昔は確かに存在した友情でさえも恋愛だったと錯覚させるのです。
物語は嘘をつく。けれど、物語は自分が嘘つきだと知っている。だからこそ、誠実な態度で、正直に語ろうとするのかもしれません。
Dear My Friend』はまさにそのような、嘘つきで正直、というちょっと不思議な作品です。

Dear My Friend 通常版

Dear My Friend 通常版

本当の悪人がいない、とても優しい物語です。何よりも、終わせ方が絵に描いたようなハッピーエンド。ただ、みんな嘘をつきます。ヒロインたちも、サブキャラクタも、主人公でさえも。
この物語に触れる人々は、物語を重ねていくたびに、嘘の裏側にある「真実」を知ったと感じることでしょう。それもまた嘘であると、他ならない物語が告白しているわけですが。
時系列が、設定が物語から独立した形で存在している、というわけではありません。物語によっては現在が過去を規定し、未来が現在を決定する、それが物語における時系列の常態なのだろうと思います。言い換えるなら、物語における時間は過去から未来に向けて進むとは限らないのです。この『Dear My Friend』もその例外ではなく、物語の開始時点を現在とした場合、過去に起こったある重大な出来事でさえも、それが直接描かれない限り無かったことにされてしまいます。
僕はそれを「矛盾している」なんて批判したいわけではありません。あくまでも、それが物語の常態なのですから。
ただ、この「優しい嘘つき」たちは、根本的には正直者なのでしょう。
現在が過去を塗り替え続けていく現実から目を背けさせ、物語の裏側に変わらない設定が、永遠の想いが、真実があると思わせる「優しい嘘」。僕はその「優しい嘘」こそが全ての物語の本質であると思うのですが、あまりに優しすぎるこの物語は嘘をつき続けられない。もしかしたら、賢明なプレイヤは物語が真実を告白する前に気付いてしまうかもしれません。
彼女の悲しみも、葛藤も、すべては「この場限りのこと」だと。
それでも僕は、気づかないフリをして、ちょっとだけ舌を出す。
それが、真摯な態度で告白する作品に向けるべき、最も誠実な態度ではないでしょうか。
最後にOPを紹介して、このレビューは終わりにします。White Lips『Dear My Friend』。