『シグルイ』と不気味

アニメ版の完成度については素晴らしいのひとこと。原作も最高に好きな作品ですが、それと比べても全く遜色ありません。ナレーションを極力使わず、モンタージュで状況を簡潔に説明しようにしている辺りが特に好感度高いです。決して「原作そのまま」ではありませんが、結果として原作の空気を忠実に再現しています。
それにしてもおっそろしいですよね、虎眼流の人々……。江戸時代の武士が全員あんなだったというわけではありませんが、ただ、一面のリアリティを持っているのも確か。原作もアニメもそのことを理解した上で、現代人にとってはドラマチックな彼らの生き方を「日常」というベールに包んで描こうとしています。虎眼先生の理不尽な命令に黙って服する門人の姿、殺人、衆道に対してその意味を問いかけたり、合理的な解釈を与えたりはしません。
そんな虎眼流の面々の中で最も人間的というか、理解しやすいのは伊良子でしょうね。第5話の、伊良子が母親に和菓子を食べさせ、その後で自ら手にかけるシーンには心が動かされました。和菓子を食べさせるくらいだから、決して母親を憎んでいるわけではない。同時に娼妓である母親の存在をこの上なく消し去りたいと思っている。この人間的葛藤を描いたシーンによって伊良子に感情移入した方も多いのではないでしょうか。
しかし、その伊良子は第6話であっさり虎眼流から排除されてしまいます。結局彼は、意味や目的を剥ぎ取られ「〜であること」の社会である武家社会にとっては余所者だったのかもしれません。
その伊良子や、わずかに現代的な視点をもっている三重あたりから見れば、虎眼流の人々は自動的に決められた動きを繰り返すオブジェのように見えたでしょう。どんな出来事も、人間の動きも、何らかの「意味」があると信じているから、「日常」というベールに隠されて意味を問うことを忘れるから、それを安心して見ていられる。ところがその「意味」がどこにもないと気付いたり、あるいは「日常」を共有できない異邦人の視点に立つと、モノは不気味に見えてくる。視聴者にとってもそれは同じで、「頑張った人間が報われる」みたいなわかりやすい「意味」ことごとく排除された世界はやはり不気味で不安に見えます。
アニメの一番良かった点は、その不気味なモノたちがきっちりと描かれているということですね。血みどろな描写だって、扇情的な意味がないとは言いませんが、身体をオブジェとして眺めること、普段とは違った視点から人間を見ることに繋がると僕は思います(一般的に行われている、血は黒くすれば大丈夫、というルールも不気味だけど)。あと、アニメ独自の要素として劇伴音楽が実に不気味。わざと音を歪ませているやつが無念無念と歌っているように聴こえるのは僕だけでしょうか……。