日露戦争後の都市問題・その1

毎週恒例の[歴史]ですが、今回から都市史に入っていきます。初回ということで、まずは都市史の近代史的位置づけから。
近代都市の研究というのは最近の流行でもありますが、80年代ごろから活発に行われだした、割と若い研究分野です(若いから流行っている、ということかも)。それだけに研究成果の蓄積にも偏りがあって、「東京」か「大阪」を扱った研究が圧倒的に多い、というのが現状です。産業化に伴って農村から大量に人が流入し、貧民街が生まれ、そういった場所に住む人々も含めて「都市化」されていく現象。多くの都市史が扱ってきたのは、そういった大都市に固有の矛盾と、その矛盾が隠蔽されていく過程であったと言えるでしょう。
ただ、東京や大阪の都市化を説明する論理が、別の都市にも適用できるとは限りません。
僕自身の研究分野は「大正時代の京都」なのですが(本当はもっと狭いのですが説明すると長いので略)、京都のような中堅都市に東京や大阪のような大都市を説明する際のロジックを持ち込もうとすると、やはり無理が出てくるわけです。言うまでもなく都市化の速度というのはバラバラで、大阪に農村の住民が流れ込んで新旧の住民で軋轢が生まれる一方、京都の農民は大阪の方に行ってしまうので目立った変化が起こらない、ということもある。理論の射程距離について、とりわけ慎重にならなくてはいけない分野です。
とはいえ、全国的に都市のあり方が日露戦争を境に変化し、それが国政レベルでの政策決定に影響を与えていたことも事実です。例えば、普通選挙制への移行を可能にした要因のひとつとして、税収のうち地租の占める割合が低下し、代わって水道・ガス・電気など国家による企業的経営からの収入の割合が急上昇したことが挙げられます。
つまり、都市の財政は一部の大地主ではなく、インフラを利用する一般市民によって支えられるという構図が生まれ、市民の政治参加に対して正当性を与えたのです。
都市化によるこういった影響を睨みつつ「市民」の動きを主体的なものとして捉えていく予定ですが、続きは次回。