『School Days』『ひぐらしのなく頃に解』の自主規制に関して−日本人に芸術の自立性は理解できない?

京都府京田辺市で府警南署交通課の巡査部長(45)が専門学校生の次女(16)に殺害された事件を受け、テレビ神奈川は18日、女子高校生による暴力シーンがあるアニメ「School Days」の最終回の放送を見送った。同作はチバテレビテレビ愛知などでも放送中で、各局とも放送を見合わせる予定。

http://www.mainichi-msn.co.jp/entertainment/manga/manganews/news/20070919mog00m200002000c.html

今週放送を予定しておりました「School Days」12話の放送は、現在、都合により放送を休止させて頂いております。今後の放送の予定が決定次第、当ホームページ内でも告知してまいります。
放送を楽しみにして頂きました皆様には大変申し訳ございませんが、今後とも何卒宜しくお願い申し上げます。

 

本日27:32〜放送を予定しておりました、東海テレビでの放送は、
諸般の事情により休止させて頂きます。
大変申し訳ございませんが、何卒宜しくお願い申し上げます。

ひぐらし解:テレビアニメ「ひぐらしのなく頃に解」公式サイト

行政からの放送中止命令、というように自身が「被害者」になるときは強く反発するのに、少しでも「加害者」になりそうなときは「自主規制」でうやむやにしてしまう……。それも自己防衛の一種ではあるのでしょうが、結局は自分の首を絞めているだけだということに、マスコミはそろそろ気付くべきでしょう。
自主規制である、と言い張る限りにおいて、「表現の自由」という権利は誰にも傷つけられていないと思い込むことが出来ます。今回はたまたま権利を使わなかっただけだ、本当に必要なときのために取っておこう、という風に。しかし、使われなくなった権利が守られる、ということが本当にあるのでしょうか?


それにしても日本はポルノとホラーに対する風当たりが強いですね。アンモラルな作品はアンモラルな人だけ、崇高な作品は教養のある人だけ見られるようにしようという限定化。地上波のTVや新聞に一般向けではない(と見なされる)作品が出てくると大騒ぎになってしまう。
おそらく、そんな風潮と対決出来るのは、社会的要求や世俗権力から自立し、また共有されることに価値を見出そうとする「芸術」という概念だけでしょう。しかし、歴史的に見て「芸術」が日本に根付いているとは言い難い……。

もう、なんていうか、マスコミが主導する表現弾圧思考との
断絶があまりに深すぎて、どう云えばいいのか分からないよ…。
マスコミは芸術の概念自体を完全に無視している…。
芸術の根幹的なファクターとして、アナルシー(無秩序・秩序侵犯)の
描写があって、これが描けないと、芸術は成り立たないものを持っている。
一切のアナルシーを認めない芸術など、私の知る限り存在しません。
逆に、一切のアナルシーを認めないということは、芸術が許されていない
ということ。日本マスコミはそういう社会を目指しているとしか思えないよ…。

ロリコンファル

19世紀以前の世界では、どの地域においても美術品は特定の政治権力や宗教に従属したもので、その役割は特定の目的に奉仕するものであって、「芸術」という自立した価値は存在していませんでした。
西洋ではその後、近代の訪れと共に王家や貴族の美術コレクションが宙に浮くこととなります。それを市民の共有財産として管理しようということになるのですが、それを正当化する論理として生み出されたのが「芸術」という概念でした。王冠ひとつでも、それが権力の象徴である限りは直視することさえ出来ない。だから、それを「芸術品」として世俗権力から切り離し、市民であれば「誰にでも」見ることが出来るようにする必要があったわけです。その意味では、「芸術」という概念は近代と前近代との対決によって生み出された概念であると言えます。
一方、日本は前近代の権力がそのまま温存されたので、「芸術」という概念も言葉だけになってしまったという感があります。明治中期から日本美術が活発になったのだって、結局は輸出品として有効だと気付いたからなんですよね。


日本のマスコミは科学者にインタビューしても「その研究は何の役に立ちますか?」「その研究による経済効果は」みたいなことばかり訊くらしいので、「自立した価値」というのは日本人にとって最も理解し難い概念であるのかもしれません。