私屋カヲル『こどものじかん』のエロティシズム

こどものじかん(4) (アクションコミックス)こどものじかん 3 (アクションコミックス)こどものじかん 2 (アクションコミックス)こどものじかん 1 (アクションコミックス)

「このゲームにとうじょうするじんぶつは、みぃ〜んな18さい以上です♪」(『はじめてのおるすばん』)という但し書きはどこにあるのだろう。あれぇ、どこにもないぞ。そうか、これはエロゲじゃないんだ!
という冗談はともかく、非常にエロ面白い漫画。主人公が小学校の新人教員で、現在の教育現場についてリアリティのある書き方をしているため、教員を志す人にとっても読んでおいて損のない作品であると思います。
そのためか、思わず「これはすごく真面目な漫画で、エロが目的で見てるとか、実はロリコンだとか、そんなのじゃ全然ないんだから!勘違いしないでよね!(ツンデレ風)」と自己弁護したくなる気持ちもわかりますが、ロリでエロエロだから面白いんだ自分に正直に生きようぜ的フィーリングで読み進める方が自分に対して誠実であるという気がします。


ところで、エロゲを嗜む者としてロリエロは色々見てきましたが(関係ありませんが「エロゲを嗜む」って言い方格好良いですね。変態っぽくて)、大体どの作品でも「ロリ」であることを忘れたかのようにエロに直行するので、良識との葛藤で苦しむ姿、というのは思ったほど多くありません。そこが非常にもったいない。もったいないお化けが出るぞ〜、というくらい。
ロリコンファル」の人みたいな話をすると、エロティシズムというのは視線の問題なんですよ。対象をとりまく様々な規範・常識を剥ぎ取り、ひとつの「モノ」としてみること(モノという言い方に抵抗があるなら、「存在」でも良いでしょう)。エロティシズムの出発点はそこにあると僕は思います。それは主体的に社会の「禁忌」を踏み越えていくことに他ならないし、むしろ「禁忌」があるからエロティシズムも存在する、と言えるでしょう。例えば、マルキ・ド・サドは娼婦に自分を鞭で打たせながら、そのたびに床に印をつけ、自分が何回打たれたか記録していたそうです。そこには「打たれている自分を見る自分」という視線が確かに存在します。
こどものじかん』の主人公は、思わずエロい視線で生徒を見てしまいそうな自分を意識して、その度に「俺はエロい視線でなんて見ていないぞ」と否定します。そうやって視線を意識することがエロティシズムを生み出していくという逆説が素敵。
一応付け加えておくと、僕は動物的な性欲とエロティシズムとを分けて考えています。見ていて面白いのは断然後者。エロをもっとエロを!世界の半分はエロで出来ている。やんややんや。
こういう話を書くと危ない人になったみたいで面白いですね。