日露戦争後の農村問題・その2

というわけで久々の更新。前回から2週間経ってしまいました。今回は日露戦争以後、農村の住民たちが都市へと出稼ぎあるいは移住していくことに関する問題を取り上げます。
さて、そもそも農村の人口が都市へと流出していくことの何が問題なのか、という所から話を始めましょう。農閑期に都市へ出稼ぎに行ったり、食いはぐれた農民が夜逃げ同然に都市へ移り住んだり、ということは前近代から当たり前に行われていたことであり、村の人口が増えすぎないよう調節するためには必要なことでした。その意味では、農村の人口が都市へと流出していくことそれ自体が問題だというわけではありません。
少し関係ない話をすると、網野史学ってありますよね?「百姓は農民ではない」と非農業民の重要性を強調し、同時に海民、山民、芸能人など「無縁」の世界にスポットを当て、戦後の日本史学に大きな影響を与えました。ただ、網野本人はともかくそのフォロワに対しては「ロマンチシズムに流れすぎ」みたいな批判も結構されています。「無縁」の世界に生きる人々を一種の自由民として見るのも間違いではないけれど、その中には少なからず農村では食い扶持を得られずに村を追い出された人々も含まれているわけで、一般的な農民との違いを強調するだけでは片手落ちではないか、という風に。
閑話休題
都市に農村の人口が流入すること自体は問題ではありません。ただ、村から出て行く者が農家の長男であったり、働き手として期待されている若者であったりした場合には、少し事情が変わってきます。
日露戦争の前後から、都市へと移住する人々の質が変化していきます。簡単に言えば、それまで農村では食えないので「やむを得ず」都市へと移住していたのに対し、都市の方が良い生活ができるので移住する、という風になったのです。
単純に言えば、工場は労働者として青少年を募集し、兵役を終えた青年がちょうど都会にいた、この合致によって本来なら農村に戻り農村自治を荷っていくはずの青年たちが都会へと吸い上げられていきました。行政側としても今や、ただ国の発展に協力しろというだけでなく、よりミクロなレベル、郷土を都会から守れと旗を振っていかなければならなくなったのです。
例えば、茨城県那珂瓜連在村の指導者は以下のように述べています。

「今や日本は世界の文化に対応するために農村の文化を進めなければならんと云ふ議論が盛になって(中略)誠に適切なことである。農村文化の中心は第一学校である、神社である、寺院である、然し今日の所小学校が中心となつて活動しなければならない。(中略)而してその文化は質実剛健でなければならない。換言すれば、農村の特質を失はざる文化でなければならない。徒らに西洋の真似や、都会の悪風が侵入したならば健全なる我が農村が悪化して亡びて了う」
−堀口隆次郎「町村教育雑感」『茨城県教育』第454号 1922年−

以上の記述に見られるように、特に大正以降、神社や学校を中心として農村の一体性を高めることで、農村組織の再建を図ろうとする動きが現われてくるのですが、その話はまた今度で。