毎日7,8個くらいは投稿しているので、残しておきたい文章は完全に埋もれる前に転載しておこうと思います。「twitterの文章を転載するだけの簡単なお仕事です」という勢いで。あとminoriの公式サイトでカウントダウンが始まっています。何かの。いよいよ新作の情報解禁かなぁ。
もうひとつのブログは、気が向いたときに更新中。最近はヒッチコックの映画について書きなぐっています。観られる作品は全部観る予定。


・最近「ほへー」と思ったことその1。江戸時代の公文書において「住宅」という言葉は、地主が本来はその土地に住まなければならないにも関らず、管理人に任せて違う場所に住んでいる状態を表す動詞的な使われ方がされていた。それが明治期になると、本籍地を離れ、都市に工場労働者として集まってきた人々の住まいを住宅と呼ぶようになった。これはつまり、農村から都市へと移住してきた人々のすまいはあくまで本来のものではない、仮のすまいという認識が言葉に反映されているためではないか。大正時代に行われた、行政による社会調査ではしばしば「住宅」の語が出てくるが、それに付けられる冠詞は「共同」「細民」「不良」といったネガティブなものである。「住宅」は本来のすみかでないので、改善しなければならない、ということか。


・その2。戦前の社会運動に関する史料を読んでいると、時間厳守を訴えるスローガンがしばしば登場する。そこでは、「8字」とか「9字」といった風に、時間の「時」に「字」をあてる場合が結構多い。これは何故だろう?「時」って難しいかなぁ?と思っていたのだが、実は明治の初期、不定時法と定時法とが併用されていた頃に、両者を区別するために「字」と「時」を使い分けていたらしい。不定時法なら「〜字」、定時法なら「〜時」という風に。明治五年ごろには公文書では定時法に統一されるが、慣習としては長い間残った、ということ。


・『ガンダムSEED』『SEED・D』そして『OO』と最終回付近に大量破壊兵器の登場する展開が続いているわけだが(『コードギアス』もそうか)、「歴史の終り」にリアリティを感じない我々としては「事実上の終り(全員死亡)」か「終りのないのが終り」から選択するしかなくて、後者を正当化するための仮想的として前者が現れるのだろう、と思う。ただ、『OO』は「歴史の終り」を「いや、そんなの信じてないですよ?」と言いつつ信じているので、大量破壊兵器の必要性は薄い。だからあのデススターもどきの存在はスルーされた。
『OO』を観てると、実は『クロスボーン・ガンダム』と似ているんじゃないかという気になる。歴史に区切りをつけて、この先に行こう。今の世界はこれでおしまい。いやいや、それはまだ早い。みんながニュータイプになる前に、普通の人間としてやることが残っているのでは?膨れ上がった過剰な期待をリセットして、もう一度やりなおそう。そう考えると、ループものの構造に近づいてくるのが道理か。
コードギアス』はその先へと、明確に「終り」を目指していたわけだが、その暴力性を回避するために持ち出されたのが大量破壊兵器であるフレイアなのか。一番危険なものを回避した結果として選ばれた「終り」は、いくらかマシなものであるに違いない。


安丸良夫の名著『近代天皇像の形成』をぱらぱらとめくってみる。最後に著者がこんなことを書いている。

天皇家と皇族の人たちは、普通の生活者たる私たちとは別世界の住人であるが、しかしあの人たちも私たちの大部分と同じように現代日本社会に生きるほかない人たちであり、彼らは現代日本においても社会秩序と社会規範の源泉となるように求められていて、そのことが強い抑圧性となっていることは明らかである。あの人たちがいまよりも自由になれば、私たちもまたなにほどか自由の幅を広げることが出来るのではないかと思う。」

最後の一文にぐっと来る。日曜の朝には「皇室アルバム」とか「皇室日記」なんて番組をやっていて、現代の皇室は「仲のよい家族」を演じ続けることを求められている。でも、家族は絶対に仲がよくないといけない、となれば酷い抑圧だ。せめて両親は海外赴任で、実は妹と血が繋がっていなかった!とか、そういうイベントが必要だと思う(意味不明)。