「其後の谷中村(上・下)」(『都新聞』1914年3月11日・12日)
足尾銅山から流出した毒物が洪水によって渡良瀬川周辺地域に広がり、大きな被害を出した足尾銅山鉱毒事件の「その後」についての記事。谷中村を洪水を防ぐための貯水池にするため、居住地を買収、最後まで残った18件の家屋も強制執行により撤去された(1907年)。しかし彼らは仮小屋を建て、鉱毒反対運動の中心人物であった田中正造と共に谷中村に住み続けた。本記事が書かれた1914年は田中正造が亡くなった翌年であり、「田中翁に愛された土民の一人」の語りという体裁をとっている。
本記事によると、貯水池に指定された谷中村であるが、「去年の暮頃から水は全くひいて只今は見渡す限りの田畑が広々と一味縁に乾いて」いる。山から雪解け水が流れてくる春先になると、村は大きな沼のようになるという。しかし「それが為に附近の水害が助かるといふ効能は少しもありません」。この住民によると「田中翁の治水論が実行されれば貯水池などの必要は」なく、にも関わらず谷中村が貯水池にされたことへの抗議から村に住み続けているのだという。
男の住民は魚をとったり隣村へ日雇い仕事に出かけたりして、女は菅笠を編んだり機織をしたりして生計を立てている。しかし魚は年々取れなくなっている。また、1913年12月には警察署から田中正造の遺骨を谷中村の中に安置することを厳禁する命令がきたという。
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1914年、残留村民らが田中正造の霊を祀る田中霊祀を建設したところ、河川法違反で連行され、裁判で罰金刑を受けた。なお同様の裁判はこれ以前にも数例ある。いずれも、仮小屋に住んでいた元村民が小屋の修理をした際に河川法違反に問われたものである。
1917年2月25日ごろ、残留村民18名が藤岡町に移住。ほぼ無人状態となる。田中霊祀も同年3月に藤岡町に移転した。

谷中村 - Wikipedia

現在は、渡良瀬川遊水池(谷中村跡)は面積33k㎡、2億トンの貯水が可能。ゴルフ場に利用されているが、雨のたびに冠水する。
遊水池はもともと冠水用地であり、周辺へ洪水被害の波及しないようにする目的で建設されたものである。
渡良瀬川遊水池が機能したのは、渡良瀬川に足尾ダム・草木ダムが建設された、戦後のことである。渡良瀬川遊水池は、単独では洪水対策としては無力であった。

「谷中村滅亡史」を読む