ネット言論について

酔って書いた昨日の記事が予想外に反響が大きかったので、今日も酔っ払いながら書く。2日連続で酔っていることには特に因果関係はないので悪しからず。
昨日は個別のブックマーカや特定のサイト*1を批判したわけですが、それに関しては少し反省しました。非建設的だったな、と。それよりは間違った意見が拡大再生産されていく力学を検証していくほうが余程有益だということで、今日はその話を。
ウェブ2.0という言葉によってネットにおける相互干渉性が強調されるようになって以来、権力格差に対する批判意識が甘くなったのではないか、というように考えられます。ブロゴスフィアにおけるマイノリティ戦略がその負担を考えないままに賞賛され、もてはやされていく。ブログはカルチュラル・スタディーズと同じ道を辿るのかもしれません。
そこでこれからの社会批判やウェブ言論に求められるのは、相対性に逃げ込まず、文化権力の所在を明らかにしていくことでしょう。
例えば国旗・国歌による「公共性」を批判するとします。そこで「国旗や国歌は近代以降に創られた幻想である」と批判したとしても、国旗や国歌は明確な根拠を持たないからこそ構造化され社会的慣習として組み込まれうる以上、ほとんど意味はありません。
そうである以上、公共性を構造化する権力主体について考えていくことが必要になるわけですが、僕の場合はそれを「当事者をして非当事者にならしめる力」の存在に求めたいと思います。例えば前近代においては政治を行う人間は「領地に地縁がある」だとか「親も同じ官職についていた」といった当事者性を重視して選ばれていたのに対し、近代においては官僚制という制度を敷く都合上、地縁だとか血縁といった政治を行う正当性を持たない者に対して権力を与えていくという方向へと進んでいきました。このように非当事者の権力を保証することが近代的権力の本質ではないか、と僕は思います。
匿名批判が空転しやすいのはおそらくこの理由によるのでしょう。別に「近代を乗り越えろ!」なんて今更思っているわけではありませんが、ウェブ言論の特質を捉える上でこの辺の問題は避けて通れないだろうな、と考えています。
とはいえ権力を与える主体が単一ではないという点がややこしい。僕はマスコミも権力を与える主体だと考えているのですが、マスコミ批判の中からマスコミが生まれたりと、権力が生成されていくプロセスには未解明の部分が多いと感じます。当面の問題になるのはその辺かな。

*1:確かに酔ってる。もうわけわからん。直しきれないのでとりあえず「個別のブックマーカや特定のサイト」を「ブックマーカや個人ニュースサイト」に脳内変換してください。