国体と社会―総論

藤田省三の「天皇制社会」
藤田省三天皇制国家の支配原理 序章」1956年『藤田省三セレクション』(平凡社、2010年)。
「政治権力の装置」かつ「日常的生活共同態」である近代日本国家。前者において前提とされる社会的対立(と、そのうえでの政治統合)は、後者では存在を許されない。明治維新を画期として生まれた二元的体制は、大正デモクラシーにおいて揺らぎをみせる。

明治維新において、君「徳」による支配に代えて君「威」によって集権国家を形成せんとした権力独立への志向は、明治中期から末期にかけて、いわゆる「家族国家」原理が貫徹せしめられ、最も基礎的な第一次集団たる「家」が権力組織の範型とされることによって根絶されたかに見えた。しかるにその後、日本社会の急速な資本制化に支えられたいわゆる「大正デモクラシー」においては、「君意民心の一致」すなわち天皇制国家統合の透明化のためには、「我が帝国古来の精神的方法」によるだけでなくて、「器械的即ち制度的方法」具体的には普選と政党政治によって「之を補足すること」(尾崎行雄〔『立憲勤皇論〕15頁以下)が必要とされるに至った。ここでは、権力主体の転換が何等問題とされない以上、民本主義運動自体の中にはデモクラシーへの志向性は存在しなかった。しかし伝統的支配方法の「補足」手段としてであれ政党政治化による統合の「制度化」を意図したところには、明らかに国内社会に於ける特殊意思の存在を暗黙に承認し、多元的特殊意思の「一致」の機構的保障を問題とする態度が存在していた。ここには国家を政治制度の領域に限定する萌芽が認められるであろう。(p12)

こうした傾向に対抗して、二元的体制の再編が「官僚制と共同体の媒介者」によって行われる。

〔かつて媒介者の役割を果たした寄生地主が農村とのつながりを失うことで〕ここにおいて、媒介者たる寄生地主制はそれ自身が、いまや自らの矛盾の媒介者を要求する。自作農上層=中農範疇の維持が経済政策上の中核におかれ、これに見合って、政治的国家と村落共同体の非政治的支配との媒介を新に担当すべき在地の体制的中間層(篤農)が育成される所以がここにあったのである。
ここに天皇制国家のミクロコスモスの階層秩序として社会が編成され、かくして大小無数の天皇によって、生活秩序そのものが天皇制化されることになってゆく。われわれが天皇制社会の成立と呼ぼうとするものがこれである。以来第一次大戦と一九二〇年の恐慌による寄生地主制の全面的危機、昭和大恐慌によるそれの崩落開始とともに、愈々在地的中間層はその意味と、従って機能とを拡大し、農山漁村自力更生運動を出発点とする政治体制のファッシズム化の過程で、あらゆる社会領域において農村中間層を範型とした機能的中間層すなわち平沼のいわゆる「各界中核精鋭分子」が形成され、それが頂点と底辺との連鎖的媒介的通路を破って国家権力に直接把握されることとなり、ナチの如くアトマイズされた個人を単位とするのでなくて共同体のレジメンテイションの単位とするファッシズムの天皇制的形態が成立するのである。(p40)

参考:尾崎咢堂『立憲勤皇論』1917年『尾崎咢堂全集』第5巻(1955年、公論社)
「抑も立憲政治の神髄は、器械的則ち制度的方法を以て輿論民意の帰向を察知し、以て君意民心の一致を図るに在り」(p272)

所謂立憲政体なる者は、民心察知の器械的方法に過ぎずと雖も、欧州列国にありては、元来此の意味に於て、君主自ら之を設定したるにあらず、政治参与の権利として、人民之を要求し、之を獲得したるなり。故に其の起源を論ずれば、立憲政体は、彼にあつては権利行使の機関にして、我に在りては民心察知の制度なりといふを得べし。則ち君主より観れば民心察知の制度たり、臣民に在りては権利行使の機関たり。其の権利行使に由りて、憲法上の負担を分ち(憲法発布の勅語)以て君意民心の契合を完ふす。帝国憲法の精神実に此に在り。(p273)

同様のロジックから、「政党内閣は最も善く我が国体に契合する者なること、寸疑を挿むの余地なきが如し。蓋し政党内閣は、君意民心を一致せしむべき器械的最好方便なればなり」(p279)
・社会に内在する天皇
2016年8月8日の明仁天皇による「お気持ち」表明

戦後70年という大きな節目を過ぎ、2年後には、平成30年を迎えます。
私も八十を越え、体力の面などから様々な制約を覚えることもあり、ここ数年、天皇としての自らの歩みを振り返るとともに、この先の自分の在り方や務めにつき、思いを致すようになりました。
本日は、社会の高齢化が進む中、天皇もまた高齢となった場合、どのような在り方が望ましいか天皇という立場上、現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら、私が個人として、これまでに考えて来たことを話したいと思います。
即位以来、私は国事行為を行うと共に、日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来ました。伝統の継承者として、これを守り続ける責任に深く思いを致し、更に日々新たになる日本と世界の中にあって、日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくかを考えつつ、今日に至っています。
そのような中、何年か前のことになりますが、2度の外科手術を受け、加えて高齢による体力の低下を覚えるようになった頃から、これから先、従来のように重い務めを果たすことが困難になった場合、どのように身を処していくことが、国にとり、国民にとり、また、私のあとを歩む皇族にとり良いことであるかにつき、考えるようになりました。既に八十を越え、幸いに健康であるとは申せ、次第に進む身体の衰えを考慮する時、これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないかと案じています。
私が天皇の位についてから、ほぼ28年、この間私は、我が国における多くの喜びの時、また悲しみの時を、人々と共に過ごして来ました。私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました。皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共に行って来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。
天皇の高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろうと思われます。また、天皇が未成年であったり、重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には、天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。しかし、この場合も、天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。
天皇が健康を損ない、深刻な状態に立ち至った場合、これまでにも見られたように、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。更にこれまでの皇室のしきたりとして、天皇の終焉に当たっては、重い殯(もがり)の行事が連日ほぼ2ヶ月にわたって続き、その後喪儀に関連する行事が、1年間続きます。その様々な行事と、新時代に関わる諸行事が同時に進行することから、行事に関わる人々、とりわけ残される家族は、非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが、胸に去来することもあります。
始めにも述べましたように、憲法の下、天皇は国政に関する権能を有しません。そうした中で、このたび我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返りつつ、これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり、相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう、そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ、ここに私の気持ちをお話しいたしました。 
国民の理解を得られることを、切に願っています。

「お気持ち」表明の具体的契機は、大喪の礼とオリンピックが重なることへの不安か?