日本社会科学の持続と展開

自然主義について――魚住折蘆
魚住の特徴は自然主義(文学の傾向と自然科学を合わせて)を文明史的視点から理解するところ。
自然主義とは……(1)誰にでも参加できる「デモクラチック」、(2)実用的、(3)機械論的(無理想的)
(3)に対する理想主義の反抗を述べたのが「真を求めたる結果」(1909年)、(1)から(3)につながる可能性を述べたのが「自己主張の思想としての自然主義」(1910年)。大逆事件による自然主義への期待喪失を述べたのが「穏健なる自由思想家」(1910年)。
・魚住折蘆「真を求めたる結果」1909年『現代日本文学大系』第40巻(筑摩書房、1973年)。

事物の真相を知りたがる精神、換言すれば好奇心は近世科学の根本的精神であつて又大体近世的生活と歩調を合して居るものである。第一に科学は、同く世界の真相を認識すると云つても哲学のやうに特殊の天才にのも許されたものではなくて先づ誰にでも分り易い。此事はデモクラチツクな近世的精神に合する。第二に科学は直に其原理を実際に応用する事が出来る。之がまた世間的な近世的傾向と一致する。〔中略〕次に自然主義者の或者が無解決と叫び、懐疑と呼び、理想を仮面だと罵るが是も科学的である。無解決は科学的精神と全然相容ぬやうに見え易いが、実はさうでない。科学者の中から幾多の敬虔な人物をも出したに拘らず、科学者は概して唯物論に傾いてゐる。其唯物論は一種の解決と見れば見られぬ事もないが、其機械論たるに限り人生の意義目的に対して無解決たるべきは当然である。(p3)

近世的精神と科学の合致。しかし・・・

然し科学の覇権はもはや子午線を経過したのではなからうか。形而上学を要求する声には自然主義の衰微が萌して居るのでは無からうか。科学万能論が唯物論となり、唯物論が感覚論快楽論(功利論は近世の民主的傾向を容れた快楽論である)となり、快楽論が厭世論になる経路は近世思想の最も著しく証明したところである。(p4)

・魚住折蘆「自然主義は窮せしや」1910年『現代日本文学大系』第40巻(筑摩書房、1973年)。
上記の論文を出したあと、自然主義を擁護する必要を感じたらしい。

自分とても自然主義其ものには深い不満を感じてゐるものではあるが、少しく論壇の旗色が悪いと云つて、自然主義がさも滅亡してしまひさうに云ひたくは無い。論壇に代表者を有してゐないことと、社会的勢力として衰へたこととは別である。(p5)

しかし基本的な論旨は変わらず。

吾等の世紀は憐れむべき世紀である。精神の高揚を許さず、従つて天才の出現する能はざる時代である。Trivialismの横行する時代である。殊に此傾向を助けてゐるのは、長き間のオーソリチーの専横に対する反抗の情が養うたデモクラチツクの精神である。吾等は天才を崇拝する謙虚の情を失つて了つてゐる。(p6)

・魚住折蘆「自己主張としての自然主義」1910年『現代日本文学大系』第40巻(筑摩書房、1973年)。
主観と客観の対立として自然主義vs理想主義を論じていた上記の論文と異なり、自然主義に内在する理想主義を論じる。

近代思想は其がどんな思想であつても大か小か自己拡充の精神及び其消極的形式たる反抗的精神を含有して居る。自然主義が本来極めて科学的デテルミニステイツクで、従つて自暴的廃頽的であるに拘らず、一面に自己主張の強烈なる意志を混じて居るが故に、或時には自暴的な意気地のない泣言や愚痴を云つて居るかと思へば、或時には其愚痴な意志薄弱が自己を威丈高に主張する事もある。是畢竟近世思想が現実的と云ふ事を超現実的な中世に反抗して来つた結果である。(p7)

恰も近世の初頭に当つて、相容れざるルネツサンスと宗教改革との両運動が其共同の敵たるオーソリテイに当らんが為めに一時聯合したる如く、現実的科学的従つて平凡且フエータリステイツクな思想が、意志の力をもつて自己を拡充せんとする自意識の盛んな思想と結合して居る。此の奇なる結合の名が自然主義である。〔中略〕然し今日の教会は自然主義の正面の敵となる程有力なるオーソリテイではない。今日のオーソリテイは早くも十七世紀に於てレビアタンに比せられた国家である、社会である。〔中略〕殊に吾等日本人に取つてはも一つ家族と云ふオーソリテイが二千年来の国家の歴史の権威と結合して個人の独立と発展とを妨害して居る。〔中略〕こんな事を云つたら、やれ進化論がどうの、やれ社会有機体がどうのと、こちらい事をふり廻す人が出て来るかも知れないが、其れを御尤もとしても、兵隊には取られる、重い税はかかる、暮しは世知辛くなる、学問が細かく分化する、是等の事実のゲミユーツレーベンに影響せぬ筈がない。(p8)

参考1:坂上博一「魚住折蘆の生涯と思想」『現代日本文学大系』第40巻(筑摩書房、1973年)。
折蘆の生涯は「浪漫主義より自然主義を通過して理想主義へという近代日本思想史の最も鋭角的に通過して行こうとする近代自我確立過程の一悲劇」(p411)

理想主義を翹望しながらも、現実の自然主義をはっきりと承認せざるを得ない折蘆のこの立場は、矛盾を内包しながらも、主体的態度としては明らかに一歩前進であった。この矛盾を統一して、いかに理想主義への突破口を開いて行くか、そのためには先ず、「真」の探求に対する障壁を形づくり、矛盾の統一を阻んでいる敵の存在を認識し、絶えざる勇気を以てこれに挑戦して行くことであらう。その武器はどこにあるか。いかに逆説的な形をとろうとも、それは現実に存在する自然主義の内部以外には有り得なかった。(p406)

参考:加藤周一林達夫とその時代」1979年『加藤周一セレクション』第2巻(平凡社、1999年)。
自然科学をその基盤である西洋文化からとらえなおそうとする試みが日露戦後から数多くみられるようになることについて。(「西洋文明」ですべてがひとくくりにされていた段階から、「西洋文化」という歴史的個性と、それが生み出す種々の産物とを切り離して認識し、そのうえで再結合する段階への移行)

西洋文化に対する日本の知識人の態度は、明治以来次第に変化して今日に及んだ。その変遷を、大きくみれば、三つの時期に分けて考えることができる。
明治維新から第一次大戦まで、日本の知的指導者たちは、西洋文化のなかで日本社会の改革とその発展に直接に役立つ(と彼らが考えた)部分を、択び出し、輸入しようとした。択び出しの作業は、西洋各国の文化の比較検討を意味する。その結果、憲法ビスマルクのドイツに範を採り、民法はフランスの例に倣う、海軍はイギリスに学び、陸軍はドイツ流に従う、工業技術は英米独を折衷して、その長を採り、短を捨てるということになった。(p364)

このような「択び出し」は、ほかのアジア諸国に対する西洋の「影響」とは著しく異なる。

制度や技術ばかりでなく、政治社会思想、文学、芸術の面でも、明治以降の知識人は、彼ら自身の日本社会における活動にとって、直接に役立つ部分を、相手方の文化の全体の中から択び出すことに、熱心であった、といえるだろう。たとえば中江兆民は、フランスの急進的な政治思想に学んだが、その国の芸術に興味をもっていたのではなく、義太夫に熱中していた。

直接の「効用」を重視する明治と、それをわきに置いて、文化全体をとらえる大正。

西洋の歴史と文化の全体を、そのものとして理解しようとする傾向は、両大戦間の知識人を特徴づけている。第一次大戦後に、もはや相手方の文化のどの部分が日本社会に直接に役立つかは、第一義的な関心ではなくなった。役立とうと役立つまいと、文化は一箇の体系であるから、その全体を理解しなければ、部分さえも正確に理解することはできない、という考えが、この時期に支配的になったのである。〔中略〕第一に、両大戦間の知識人は、明治の「西洋化」が、しばしば浅薄な結果に終るのを、目撃していた。早くも鴎外は『普請中』を書き、漱石は西洋化の「上滑り」を指摘していた。〔中略〕第二に、第一次大戦後に流行したマルクス主義は、歴史と文化の綜合的・包括的な理論であり、複雑な社会現象の全体を理解するために、便利な知的道具を提供した。マルクス主義は、理解することよりも変化することを促すはずであったが――事実上変革の可能性はなかったので――、主として歴史と文化の体系の全体的な理解に寄与したのである(p365-366)

西洋文化に対する総合的な理解をめざして、戦間期の知識人は膨大な研究を残した。その知識の集積を前提として、はじめて戦後における学問の「専門化」は可能であった。


・都会と田舎、近代と超近代―西田幾多郎廣松渉
小林敏明『廣松渉―近代の超克』(講談社学術文庫、2015年、初出2007年)

日本は西欧の外部で近代文明(資本主義)の発展に成功した数少ない国のひとつだとは、よく言われることだが、それはあくまで工業、商業、文化産業といった分野にメルクマールを置くかぎりのことで、その裏面には農村の疲弊解体という事実があったことを見逃してはならない。つまり都市部でプラスに評価される近代化も、農村部においては必ずしもプラスとはみなされず、むしろ窮乏の原因、自らの生活基盤を犯す脅威とみなされえたということである。廣松も西田もこの近代の影を幼少期に鮮明な形で体験している。(p29)
つぎにこの周辺部から生まれ育った人間にとっての脱出口の問題がある。過疎化現象と呼ばれるものがそうだが、疲弊する農村とは、裏を返して言えば、展望のない閉鎖社会ということであって、そういうところで生まれ育った人間たちがとくに少年少女期から青年期にかけて都市部への脱出を図ろうとすることは、今日でも同じ状況であろう。とくに首都一極集中型の社会構造をもつ日本のような国では、そうした地域で多少才能に秀でる(と思っている)者は、一挙に中央を目指すということになりやすい。地理的に言えば、それは東京であり、進路的には大学である。(p30)
じじつ彼らの律儀なまでの礼儀正しさや気遣いの裏側には、地方出身エリートの都会人に対する敵意にも似たライバル心が透けて見えることもあった。彼らにとって中央は希望に満ちた閉鎖社会からの脱出口であるとともに、同時に自分たちの体質にそぐわない反発の対象でもあったからである。このアンビヴァレンツこそ二人の精神形成に大きく与った心理的ファクターのひとつである。〔中略〕こうしたアンビヴァレンツから生まれてくるのはたんなる反近代ではない。脱出口として求められた都市=近代は、まず自らの前近代を克服するものとしていったん享受され、そのうえで批判されねばならないのである。彼らがたんなる「反近代」ではなくて「近代の超克」を唱えた背景にそんな心理も働いていると思われる。(p31)
誤解を恐れずにいうならば、彼らの深層心理の根底にはつねに「田舎」や「土着」が巣くっていた。彼らにとって「都会」「中央」「世界」はあくまでも「思想的立身出世」を実現する場所である。と同時にそれは「敵地」でもあった。だから彼らは書物という媒体をとおして異常なまでにその世界を知ろうとした。彼らの博覧強記がそれを物語っている。つまり彼らのインターナショナリズムは、世界の側から地球を睥睨ないし鳥瞰するコスモポリタニズムとちがって、あくまで彼らの出身地を基点として、そこから国、世界へと放射状に拡大するインターナショナリズムだったということである。(p33)

・地方出身の大正デモクラット
西田幾多郎(1870-1945)―石川県出身。幼いころに父が事業で失敗。
牧野英一(1878-1970)―岐阜県高山市出身。東京帝大の同僚教授に強い敵愾心(「私は彼らと違って貧乏だから」)
米田庄太郎(1873-1945)―奈良県奈良市出身。被差別部落に生まれる。京大での出世が遅れる。
吉野作造(1878-1933)―宮城県志田郡出身。比較的裕福な家庭。弟は官僚に。
海野幸徳(?)―
「世界の潮流」への強い関心と、戦時中の積極的発言。
・都会出身の大正デモクラット
福田徳三(1874-1930)―東京神田生まれ。第一次大戦後の国際情勢の認識をめぐって吉野と対立(福田はイギリスに批判的)。
左右田喜一郎(1881-1927)―神奈川県横浜市生まれ。多元主義国家論。



・昭和の科学者とその弱さ――なぜ1941年12月8日に科学者は弥栄を唱えたのか
古在由重・丸山眞男『一哲学徒の苦難の道』(岩波現代文庫、2002年、初出1966年)

古在「話がちょっと取ってつけたようになりますが、やはり自然科学の理論というものは、みなどこか「仮説的なもの」をもっているわけですね。そして、新しい実験や観察の結果とでっくわして〔ママ〕、これらと食い違えば、むしろ理論のほうを訂正するという場合が多い。〔中略〕科学に対する確信というのは、そういうものまでを含めての確信でなければ、科学的確信とは言えないと思います。それはいささかもわれわれの実際行動にブレーキをかけるということにはならないと思うのです。そういうことは、なかなか若い人にはわかりにくいでしょうが。
それから、よくこういわれますね。なんか戦前は滅私奉公で、左翼の運動にもやはり滅私奉公の形があった。「私」というものを棚上げした形。公けというものを国家権力とするか、支配階級に対する闘争とするかは別として、かりにいま滅私奉公といったのです/けれども、私は、あまり自分にはピンとこないのです。というのは、やはり学問をとにかく志した以上、学問といえるかどうか知らないけれど、とにかくも理論研究というものを志した以上、理論こそは「私」なのでしてね。理論を大事にするということは、僕の場合には「私」を大事にすることなので、それをいい加減になんかするということは、当然これは「私」を台なしにし、メチャクチャにすることになるのではないかな。だから、やはり自分として「私」を大切にしたのではないかと思うのですね。要するに、自分を大事にするということ……。」
丸山「そういう考え方は日本では稀少価値だと思いますね。 第一に、理論の仮説性というものをふくんだ科学的確信という点、第二に、科学するということが、いわば当然に、自我というか「私」の尊重と内面的につながっているという点。つまり一方では「イワシの頭も信心」的な凝り固まりになるが、そうでないと自我ぬきの実証科学……したがって、なんかのときにワッとはね返されて自我に返ると、自然科学者でも、とんでもないうわごとや禅問答のようなことをいいだす。
戦争中の自然科学者にもザラにいました。ごく普通に科学すること、ザッヘ(事物)に即くということそのことに自我の問題が入っているというのは、むしろ思想史的には、非常にルネサンス的……。」(pp183-184)