大正期の社会と社会科学(2)

文芸評論家・安藤礼二は『近代論』のなかで、「『近代』というものの限界とそれを突破していく可能性を探るために、特権的といってもよい、ある一時期が存在している」と書いています*1。それは明治43年から44年というきわめて短い時間でしたが、そのなかで南方熊楠は『南方二書』を、柳田國男は『遠野物語』を、折口信夫は『言語情緒論』を、西田幾多郎は『善の研究』を、鈴木大拙はスエデンボルグの翻訳『天界と地獄』をそれぞれ書き上げています。

南方熊楠の自然学、柳田國男民俗学折口信夫言語学西田幾多郎の哲学、鈴木大拙の宗教学、すなわち生命、労働、言語、思考、そして超越。あるいは曼荼羅、物語、マレビト、場所、霊性・・・・・・。それらはこの時期ほとんど同時に成立した、つまりは同一の地平を形づくる、五つの特権的な視点、五つの特異点をなしているのである。彼らは自らの書物によって時代の趨勢に否を突きつけ、その身をもって時代にあらがった。それが時代そのものの条件を露呈させたのである。生命と自然、社会と個人、伝達と表現、一と多、無限と有限。そういった概念が、この時はじめて日本語として問い直されることになったのである。*2

日清・日露戦争を経て、空間的にも思想的にも様々な隔たりを抱えていた人々が「国民国家」のもとに統合され、資本主義は都市だけでなく農村にも浸透していきます。むろん、それは社会が単純になったとか一元的になったとかいうことを意味しているわけではなく、複雑性を増大させながら、その複雑性が最高度に達したところで徐々に結晶化していくのがこの時期である、と言えるでしょう。安藤氏の名前をあげた5人の思想家は、この両義的な事態のなかでモノを考え、近代の別の可能性を模索した人々でした。


19世紀なかばから20世紀初頭にかけての政治課題とは何であったか。第一に中央集権体制の確立が挙げられるでしょう。それによる貨幣制度の統一、交通手段の整備、商業活動における安全の保障。規制の撤廃という「弱い自由」ではなく、商業に邁進するための「強い自由」、すなわち「統一」こそが必要である、という認識は、国内の中流層以上の間では広範に共有されていました。
一方、都市教養層は「表現の自由」「文化の自由」を国家に対して要求します。ここでは「弱い自由」が求められているようにも思われますが、彼らはまた、天皇の果たす文化的統一の重要性を強調します。明治前半の代表的ジャーナリスト・陸羯南は「社会」を政治と対立するもの、「情」の世界、「文化」の世界とみましたが、彼はこう言うわけです。「欧州各国の文化は人民より起れり。而して日本の文化は常に皇室より起れり」*3。ここでも統一と自由とは無矛盾なものと考えられていました。
のちに大正デモクラシーの旗手として、国家に対する社会の独立を唱えるにいたる吉野作造もまた、明治38年の段階では以下のような認識を持っていました。「吾人の観る所に依れば国家といふも社会といふも全然別個の観念にあらず。……統治なくしては社会は成り立たざるが故に……社会と国家は別物に非ず」*4明治30年ごろから社会問題が人々の注目を集めるようになりますが、それは国家の統一を乱すものとして否定的に取り上げられるだけであり、社会政策を通してふたたび国家のなかに回収されるべきものと見なされていました。
しかしこのような状況は、日露戦後から第一次世界大戦までの間に大きく変化します。
それを象徴的に表しているのが、「社会問題」という言葉の意味の変化です。個人の悪徳や不幸と結びつけて考えられてきた社会問題は、この時期からシステムの問題として検討されるようになります。貧困はもはや個人の問題ではなく、社会が生み出し、そして社会によって解決されるべき問題である、と。こうした社会問題への関心は、人々を社会秩序一般への問いへと向かわせます。
変化は学者たちの足下にも起こっていました。国家主義的な学問観は明治後期から大正にかけて薄れていきますが、その背景には学問エリートの出身階層が中産階級まで拡大されたことが挙げられます。国家との利害関係が相対的に弱い彼らは、「国家や民族の進化」といった形而上学的理念にはあまり関心を示さず、かえって個別的なテーマに関心を持ちました。被差別部落の出身と言われる米田庄太郎は、百科事典的な社会学に対して特殊科学としての純正社会学を提唱し、小野塚喜平次・吉野作造によって国家学から政治学が独立し、福田徳三は旧来の経済学に対して「経済学に哲学なし」と批判し、後に左右田喜一郎らの経済哲学が生まれる。国家から切り離された「社会」は、各方面に生起した社会科学によって分析され、異なる意味を込めて語られるようになりました。
複雑性の増大。貧困を生み出したり、経済単位になったり、個人の集合だったり独自の意思をもっていたり。文脈に応じて、さまざまな意味を込めて「社会」は語られます。この時期、多くの雑誌が創刊され、農村にまで出版物が行き渡るようになったことも、混乱に拍車をかけました。異なる文脈をもった人々がコミュニケーションをとるためには、複雑すぎて語れないものを語るためには、どうすればよいのか?
複雑性の縮減こそが、大正期における隠れた課題でした。冷えた宇宙のように、複雑な世界を結晶化し、コミュニケーションの回路を作成すること。すなわち言語を変えることでコミュニケーションを変化させ、それによって世界認識のあり方を変えていく。仰々しい言い方をすれば、そのような課題が存在していたのです。
大正8年に大山郁夫は以下のように述べています。「世界の大勢の移動が、若干の極めて印象的な標語に依つて表象せられる傾向が、この四五年に著しく増進したことは、大に注意すべきことである」*5。デモクラシー、改造、文化、社会etc。このなかには明治期にほとんど使われなかった言葉もあれば、まったく意味を変えてしまった言葉もあります。共通しているのは、そのどれもが後の歴史家によって「同床異夢」を指摘されること、つまり多義的な言葉だということです。しかし、その指摘自体はあまり重要ではありません。なぜ多義的な言葉が、その多義性が当時から自覚されていたにも拘わらず、好んで使われたのか。それは、複雑な世界を、その複雑性を保持したまま、ひとつの容器にパッケージする技法が求められていたから、ではないでしょうか。
その容器こそが、あるいは国民国家と呼ばれるものなのかもしれません。
(続く)

*1:安藤礼二『近代論』6頁

*2:同上、7−8頁

*3:松本三之介『明治思想における伝統と近代』231頁から引用

*4:吉野作造「木下尚江君に答ふ」1905年(『吉野作造選集』第1巻、岩波書店、1995年、81〜82頁。

*5:大山郁夫「社会改造の根本精神」1919年(『大山郁夫著作集』第3巻、岩波書店、1987年、4頁