「社会」概念の歴史に関するメモ

最終更新2014/10/5
ざっくりした通史
http://togetter.com/li/527959
大正時代の「社会の発見」について以前書いたもの
http://d.hatena.ne.jp/tukinoha/20110128/p1
大正時代の分は以下に移行。
http://d.hatena.ne.jp/tukinoha/10000109


【方法について】
・左古輝人「社会概念の再検討」『人文学報』43号(2008年)
・「社会を定義すること」と社会概念史の違い

彼らは〈社会〉を定義するとすぐに、そそくさと自ら定めた規約から見えてくる対象の観察へと向かってしまうのが常なのである。いわんや社会学者が用いる〈社会〉の諸概念が自然言語における〈社会〉とのあいだに持つ関係についてなど、管見する限り一度も考察されたことがない。
〔中略〕
問題は《〈社会〉をどう定義するか》ではなく、《〈社会〉が定義できるもの、定義すべきものになるとはどういうことなのか》にある。《〈社会〉とは何か》が答えうる、答えるべき問いとして認識されるためにはどのような前提条件が必要か。過去におこなわれてきた〈社会〉概念の検討には、このように問う観点がほとんどなかった。こんにちの社会学は、確実にこの観点をもちはじめているのである。p133−134

・ステートstateとsocietyはよく似た歴史的展開をしている。
もともと都市の首長が運営する対象であった諸状態stateは、徐々に増大していった。やがて諸状態stateをひとくくりにした単数形で呼ばれるようになり、さらにあとには諸stateの背後にある原理が探究の対象となる(reason of state)。社会も同様に、社会的問題social problemが先にあって、諸問題の背後にある原理が「社会の探究」として結晶化する。
(⇒ただし日本においては「原理の探求」がまずあって、原理に対置される表層が「社会現象」として概念化された、と言える(ex.久松義典「社会の顕象とは何か」。ものの見方(心理学や社会学)がまずあって、しかるのちに対象が見出されたのではないか)


【明治】
明治前半(〜明治20年代)の雑誌・新聞における「社会」概念の使われ方の傾向として、「政治社会」「政論社会」「文事社会」「新聞社会」「同業社会」「出版社会」といった用法が目立つ。同質的な集団を「〜社会」と呼ぶとともに、そうした諸社会の並立が意識される。
ex.)社説「我国社会的現象は複雑となれり」『東京朝日新聞』1891年9月13日朝刊
政府の経済政策、教育政策を批判する内容。教育に関しては「徒らに制度の器械的に整頓せんこと」を批判。そのような政策が行われるのは「畢竟簿書の間に眩暈し、複雑なる社会の真相を知らざるに由らずんばあらず。〔中略〕蓋し職に要路に当るものは封建と云へる人工的社会の下に生長し、四書の素読を以て浅く脳裡を耕したるものなり。〔中略〕此簡単なる思慮を以て複雑極りなき社会を処理せんとす、抑も難かな」。
こうした「複雑なる社会」という認識に相応するように、政治には強い公共性が求められる(その中でも、公共性を広く大衆の精神に求める馬場辰猪と、社会学者や政治家に求める雑誌『社会』のグループが両極に位置する)。「社会」を観測するうえでの特権的位置(東條由紀彦の用語を借りれば『管制高地』)が不在であるゆえに、トータルな観察力・総合力が認識主体に求められたわけだ。
「社会」語の由来
・下出隼吉「明治初期の翻訳―社会と統計の訳出について―」1927年(『明治社会思想研究』浅野書店、1932年)
石井研堂『明治事物起源』

社会といふ熟字の始
社会といふ文字は、〔正法念経〕第九巻に『何者か妄語を社等の会中若くは云々』又『彼の人是の如く、社会等の中に妄語す、悪説す』などあれば、仲間衆といふやうの意義が、本義なりしなるべし。明治九年十月廿三日発行の〔家庭叢談〕第十四号に、『必ず日本社会に於て選び抜きの士なるべし』又同十五号に『今暫く大空社会の話を止め、我々の人間社会の事に及ばんとするに、此社会の事柄も等しく釣合を保たずしては順序の立たぬものなり』其他、社会の字多く見ゆれば、この字の使用始めは、矢張り三田系にあるべきか。

明治13年フェノロサ社会進化論について語った講演は「世態開進論」として翻訳されている(本文中でも世態学に「ソシヲロジー」のルビ)。ただし本文においては「社会」語のほうが頻繁に用いられており、「世態」語はむしろ少ない。使い分けの基準も見いだせない(山口静一編『フェノロサ社会論集』思文閣出版、2000年)。
なお、この講演におけるフェロノサの主張は以下。1.昔の「政理学士」は人が原始から知識や愛情や同義をもち、それによって社会が作られていると考えているが、それは間違っている。社会を作り出すものはすべて進化によって生じる。キリスト教者が原罪によって人類は堕落したと考えるのも誤っている。 2.人は社会のなかで暮らすことで、より進化(社会化)されていく。では最初の社会はどうやって作られるのか。「権道」や「争闘」によってである。専制支配こそが社会の起源である。 3.専制から立憲制へと社会は進歩していくが、それでも専制支配が社会化の母体であることには変わりない。そこからいかにして「各人天賦の人権を全うせしか」は、「世態開進学の第二歩に属する」p148 天皇を頂きながら民権運動を進めていく明治日本への皮肉ともとれるが、この時期のフェノロサが日本の実情を踏まえたうえで議論している痕跡はない。あくまで一般論。


三田演説会では、明治15年2月11日に浜野定四郎が「社会学の三事」という演説を行っている(「三田演説会誌」第3号)
・三田系の人々(福沢諭吉、馬場辰猪)による「society」の翻訳について
『西洋事情外編』(1868年)について

この後の訳文のなかで、福沢はsocietyの主な訳語として「人間交際の道」という表現を採用する。かくして『外編』におけるsociety概念の説明は、その起源においてある超越者――それがなにものであるかについては必ずしも明確に論じられることはないのだが――から与えられたものであるらしい「道」を人間が「全」し、この「道」を守り「存」せしめるか否かをめぐる議論へと、ロジックとして免れがたく回収されていくことになるのである。
(木村直恵「《society》を想像する――幕末維新期洋学者たちと<社会>概念」『学習院女子大学紀要』第11号、2009年、23頁)

「一身独立して一国独立す」という形で定式化された「治めるものと治められるものが一致する場所」はあくまで「国」であり、「社会」が登場する余地はなかった。

societyを、閉鎖的な「社中」ユートピア(あるいは孤立した共同体)としてしか構想できなかった時代は、日本では明六社の時代にまで及ぶだろう。だが、明六社が活動を始めたとき、おそらく福沢を含めたその同人たちも思いがけなかったようなかたちで、小さなsocietyたちの活動と交渉のアリーナが展開されていくことになる。そして「社会」という言葉が生まれるのはそのただなかにおいてである。
(同上、27頁)

日文研報告につづく。
「社会」を国家形成の前提として論じる早い例として馬場辰猪が挙げられるだろう(「社会論」1878年『馬場辰猪全集』第1巻、岩波書店、1987年)。

夫れ物は集合して形を成し分離して形を失フ……人間社会も亦斯の如し、人集て家を為し家集て党を結び党集て一国を成すものなり……公議輿論の結成も亦此理に外ならざるなりp7

societyを「社中」「人間交際の道」という「議論の場や議論の作法」として捉えた福沢の見方を引き継ぎつつ、さらにそれを「公議輿論」へと延長する。そして、公議輿論を可能にするものとして「事物を取纏め之を集成するの力」「精神の概括力」を挙げる(ある意味では福沢の「人間交際の道」に相当)p7。
しかし、現在の日本人は「精神の概括力」が乏しく、したがって「純然たる社会を成立せしむる能はざる以て見る可し」p9
⇒だから「共存同衆」というサークルをつくりました、という。馬場のイギリス留学との関係については宮村治雄が書いている。
この「精神の概括力」はたんに「取纏める」だけでなく、関係の整理や、逆に分離の力も含まれている。「法律一班」1878年(『馬場辰猪全集』第1巻)において、田舎の小間物屋から都会の専門店へと変化していくように、文明化にともなって「宗教道徳其他」が「法律」「道徳」「宗教」へと分離していく過程を述べている。

故に法律は人民蒙昧の時に於ては神の宣旨と成て世に現はれ多年の星霜を経るの後一変して人の記臆に存し口碑に伝はり再変して記録と為り三変して法教修身等より分離し始めて真誠の法律となり以て勧善懲悪生殺与奪の機械と為り良民を保護し凶党を懲罰し貴賤強弱貧富の別なく皆天賦の権利を全ふし国の幸福を増し万民各々其処を安んずるに至らしむる者は即ち法律本文の職掌なりp20

植木枝盛における言論の自由と社会契約
植木枝盛「言論自由論」1880年(松本三之介・山室信一編『近代日本思想大系11』岩波書店、1990年)
文明の発達において言論が果たす役割の重要性を主張。社会契約説の一種で、社会契約の基礎に人間のコミュニケーション能力を置く。故に言論の自由は守られねばならない、と。

故に言論の自由なるものは、吾儕人間が相生養の道を為すに須要にして、知識を開発し心術を研磨するに欠き難く、万事を生達するに要用なるべく、言論の自由ありてこそ人の人たつ大徳を全ふし基本分を誤ることなきを得べく、人間にして受くることを得べきの幸福を享くべけれ。言論の自由なければ、則其人は社会に在りながら広く社会の同類とリク力して事業を営むの便なく……(p50)

夫れ国家なるものは人民の相合して成るものなりと雖ども、然かも国家の国家たる所以は則徒だ其境域を同ふするを以て成りたるものに非ず、その言語を同ふするを以てするが故にも非ず、一個の主張ありて一類を統管するが為めにも非ず、一個の法律ありて賞罰の行はるるが為にも非ず。真に国家の国家たる所以は、其人民が国家を思ふの心ありて其心の相一致するが為なり。……若し夫衣服言語を同ふするとも、互に志意を通ずるの言論を自由にすることを得ざれば、則同音を発するの偶人〔人形のこと〕に一様の装束を為したるが如し。(p50-51)

輿論と「中等社会」
末広重恭「輿論とは如何なる者ぞ」1880年(松本三之介・山室信一編『近代日本思想大系11』岩波書店、1990年)
輿論とは全員一致の意見でも、過半数でもなく、知識と財産をもった「中等社会」の意見である、という。イギリスには多くの貧民・下等人民がいるが、中等社会の人民は知識と財産を持つ。朝鮮の上等社会は知識と財産をもつが、中等社会はそうでない。よってイギリス=文明国、朝鮮=未開国である、と。
日本でも大多数の人民は旧幕時代を懐かしみ現代の政治を敵視しているが、こうした下等社会の意見によって政治が左右されることを望まない人は、いまの政治が輿論に反しているとは言わない。そうであるならば、財産と教養のある中等社会の人々によって請願が行われている国会開設は輿論というべきであろう。
西周における社会
西周がsocietyを「人間交際の道」と訳したことは有名だが、明治10年の「演説会の説」では普通に「社会」という言葉を使用。演説という習慣が「社会の観念」を明瞭にする、という。西が演説の効用としてあげるのは、多くの人に向けて話すことで公明な議論が促されること、周囲に流されず自分の意見を持つ=自立する人が増えること、力ではなく論理で決着がつけられること。(西周「演説会の説」1877年(松本三之介・山室信一編『近代日本思想大系11』岩波書店、1990年))

此等風習一般に浸潤して世間社会に渉らば、凡て交際上の説諭、規諫、約諾等の事に於て自然に慣習を成し、条を別ち款を立て、意旨を表明すること審密なるに至るべし。是即ち取りも直さず社会の観念を一層明瞭になし、其分解法(アナリシス)と総合法(シンセーシス)との能力を熟練せしむる所以なり。(p279)

西周における公益と私益
菅原光『西周の政治思想』ぺりかん社、2009年。
西の功利主義に関する二つのテクスト(「人生三宝説」1875年と『利学』1877年)のうち、「人生三宝説」は「一般福祉」を「人間第一最大の眼目」とし、その追究を推奨。『利学』では公益と私益を媒介する「君子」の存在を重視。私益は「君子=為政者」の自己犠牲と云う媒介を経て初めて公益になるのだ、と。

つまり、「人生三宝説」は、各人が功利の最大化を目指して活動する中で、その活動の集合体が自動的に全体の功利の最大化につながるとしているのに対し、『利学』は全体の利益を達成するために各人の利益をどのように調整するか、どのようなルールを作成して両者に折り合いをつけるかという視点が主たるテーマになっているのである。(p131)
功利主義」に対して「多数者の利益のために少数者が犠牲にされる」という批判が一般に為されているが、『利学』における少数者とは「君子」以外の者ではありえず、「君子」以外の社会の構成員が犠牲にされることは想定されていなかった。(p135-136)
「君子」による陰の活動を知り得ない「民」にとっては、各人の私益があたかも自動的に総和され公益として出現しているように見えるかもしれない。「公益は私益の総和なり」というのはそういうことなのである。(p)

社会全体の利益を知る「君子」が存在し、彼らの自己犠牲的な統治によって私益の競合によるアナーキーな状況は回避される。「君子」の存在を前提にする限りで、個々人の自由と社会全体の利益は共存する(陸羯南における「天皇」の位置も西における「君子」と似ている)。
ex.道路を整備することで移動の自由が確保されたり、産業が発達することで職業選択の自由が確保されたりする。明治前期の思想家を捉えたのは、こうした「国家による自由」であり、「国家からの自由」ではなかった。
日露戦後に顕在化する社会問題は、「君子」を媒介とした自由と統一の調和というビジョンを歴史の彼方に追いやった。しかし何らかの統一性や全体利益と呼べるものが存在するという直観は疑いえない。⇒新カント派を跳躍台とした社会科学の転換が生じる。
なお、西周については以下も参照。
「実証」の概念史 - tukinohaの絶対ブログ領域
中江兆民における「懇親会」と社会
中江兆民における意思必然論批判と「自省の能」
中江兆民、幸徳秋水、大杉栄 - tukinohaの絶対ブログ領域に移動。
・参考:自由民権運動の「割り込み的」性格について
松沢裕作『自由民権運動



穂積八束と先祖崇拝
『国民教育愛国心』(1897年)に登場する「生存競争」について、長尾龍一加藤弘之に由来する社会進化論の影響を見ている。穂積は「民法出でて忠孝滅ぶ」と述べているように、古代的な先祖崇拝を西洋化から保護する立場にあったのではないか。それと社会進化論は矛盾しないか。

第三編「奉公」にこの疑問への彼の回答が示されている。

生存競争の結果として適者は存し適せさる者は亡[ふ]……。是生物進化の理法にして亦人生の天則なり。個人独立の力は合衆団結の力に敵する能はす。故に孤立する者は亡ひ社会を成す者は存す、社団結合の強固なる者は存し其の薄弱なる者は亡す。(五九頁)

更に、日清戦争の余韻を感じさせるような口調で言う。

生存の目的は平和なり。生存の手段は戦争なり。……我か天祖武を以て国を建つる誠に所由あるなり。而して国の戦闘力は兵に非す財にあらす義勇尚武なる国民奉公の精神に在り。(六一・二頁)

(長尾龍一「八束の髄から明治史覗く」長尾龍一編『穂積八束集』信山社、2001年、361頁)

要するに生存競争に勝つには強固な団結が必要であり、強固な団結には日本古代の習慣が適している、ということ。


・初期社会学の動向について
初期社会学の動向 - tukinohaの絶対ブログ領域


内村鑑三の「社会」崇拝批判
内村が時折見せる「社会」概念への激しい反発は、当時広まりつつあった社会防衛主義に基づく刑罰・道徳論を想定したものと思われる(加藤弘之、富井政章)。
・『求安録』1893年内村鑑三全集』第2巻(岩波書店、1980年)
「忘罪術 其二 利欲主義Hedonism」(p173〜177)において、スペンサー崇拝の風潮を非難。「スペンサー主義」として次のような考え方を挙げる。
(1)欲は自らの生命を保存し社会を組織するための「最大原動力」である。
(2)私が盗まないのは、盗むことが私にとって不利益(欲に反する)からであり、社会が罰するのはそれによって社会を維持し、ひいては私の生命と快楽を保持するためである。
(3)「善悪とは利害てふ語の同義語なり〔中略〕汝欲心の為めに悲しむは愚なり、迷信なり、唯勉めて社会学の法則に従ひ汝の欲心を満たさしめよと」(p174)
しかしながらこのような考えは「罪悪の念と戦ふ我の良心に取ては一時の鎮痛剤」にしかならない(p175)

否な社界は之を組織するものより無私の従役を要求するものなれば我若し自利を以て我の主義となさば社界は総掛りにて我を攻むるなり(p175)

そもそもスペンサー主義(=利欲主義)はピューリタン的な禁欲主義によって鍛えられている英米国民に対しては害も少なく、また迷信を排除するよい効果をもたらすが、支那あるいは印度の微弱な道徳律によってわずかに律せられているにすぎない日本人に対しては大きな害をもたらす。

物質的社界の観察に於ては余はスペンサーを師として仰ぐと雖も彼の哲学は余の心霊上の実験を入るに場所なく又之を解明するに足らざるなり。(p177)

・「社会の征服」1898年『内村鑑三全集』第6巻(岩波書店、1980年)。

抑も社会なるものは何者ぞ、或は一箇の組織体にして個人格を備へたる生体なりと云ひ、或は地理と人種とに拠りて制限せられて空間時間に存在する個人体なりとも云ふ。然れども社会学者てふ冷的人物の定義を離れて常識的に其真相を究むれば、是れ『俗人の集合体なる俗世界』たるに外ならず、之に社会てふ学的名称を附すればこそ、何となく奥ゆかしく、何となく頼もしくも見ゆるなれども、若し其真相の何物たるかを看破せば、その決して畏るべき、頼むべき、敬すべき者にあらざるを知るべし。
然れども社会てふものは近世人の神〔ルビ:ゴッド〕其物なり、社会の制裁力と云へば、聖衆の裁判の如き者と思ひ、善事善行は悉く其賞讃に遇ひ、悪事醜行は悉く其忌諱に触るる事と思はる、然れども事実に於ては社会は盲人の盲なるが如く盲なる者にして〔以下略〕p239-240

或は之を世間と名け、或は之を単に世と称し、而して近世に至りては社会てふ誇大的の名称を附するに至りし、此怪物、此妖蛇、此ゴースト。p241

社会の古習旧慣なるものは、其之を組織する個人の偏僻迷信に外ならず、個人の驕慢心の団体的に現はれしものを国光国威の宣揚と称し、其利慾心は凝りて国利民福の希望と成りて現はる、個人に存する罪悪にして社会に存せざるなく、個人に存せざる善徳にして社会に実在すべき理由あるなし、社会の真相は、其之を組織する個人に於て現はる。p242

内村は国家に対しても「余輩は其政治学者の脳裡に存在するの外、其何所に実在する者なるやを知らず」と述べている。(全集6、p438)

然れども社会は大にして強し、而して我は小にして弱し、我之を圧迫せんとするに当りて、我は我のみに頼るも益なし。此妖蛇を屠り、此魔界の王を斃さんと欲せば、我は我以外にして社会以上の力に頼らざるべからず。p244

・「改革の難易」1899年(全集6)

個人主義の国に在ては個人を改良して直に社会並に国家を改良するを得べし、然れども家族主義の国に在ては国家全体を改良するに非ざれば社会幷に個人を改良する難し、是れ実に改良事業の前者に於て容易にして、後者に於て困難なる所以なり、正当に之を解すれば家族主義の国に於ては輿論なるものあるなし、改革は下民公衆の声に応じて来るものにあらずして、為政者の命令の下に行はるるものなればなり、此場合に於ては吾人は社会を運命の手に委ね、吾人以外の勢力の来て其の改良を促すの時期を待つあるのみ。p454

・「社会改良の最良作」1901年(全集9)

社会改良とよ、社会とは抑々誰が造りしものなるぞ、人類が始めて地上に置かれし時に社会なるものは在らざりしなり、其時にホームありたり、友誼的団体ありたり、然れども今日世人の称する情もなき愛もなき社会てふ一つの死的機関は存せざりし也
社会改良とよ、然らば社会を無きものとせよ、社会てふ名と実とを排除せよ、之に代ふるに大小のホームを以てせよ、今日の所謂社会なるものは殺すべきものにして改良すべきものにあらず、社会其物が罪悪の結果たりしなり、社会なる者の無きに至て世は黄金時代に入るなりp462

・「余の従事しつつある社会改良事業」1909(全集9)

余は明治政府を戴く日本今日の社会とは縁の至て薄い者であるp469

然しながら何の望む所なして余も此時と所に生れて来た以上は何か善き事を為さなければならない〔中略:無為徒食の貴族的生き方を批判〕故に余も何か人類と社会のために為さなければならない、余は何を為して、余の人間たり、日本人たるの本務を尽さうか、是れ余の幼時より余を苦しめし大問題であった。p472


国民国家/社会/階級の区別
・竹越与三郎の「新社会」
竹越与三郎『新日本史(下)』1892年(岩波書店、2005年)
「人為の階級」たる身分制の解体について

それ社会を以て一社会を制し、一階級を以て一階級を制するの国は、たとい幾千万の人衆あるも、たとい善美なる法典あるも、これ社会のみ、国民と称すべからず。人為の階級すべて滅し、人民と政府の二大要素によりて、一国を組織するに至りてこそ、初めて一国民と称すべけれ。故に我国民が真個に国民と称せらるべき二段落は、第一、維新の役によりて各藩分封の制を破り、第二、十三、四年の度に至り、人為の階級の滅したるにありというべきなり。
然らば則ち我国民はもはや一個人を以て、直ちに国と関係する乎。一個人と国家との間に連鎖たるべき社会は存せざる乎。曰く否な。士族、平民の人為的階級が已に政治的の意義を失すると共に、士農工商なる文字が階級の意義を失すると共に、新奇なる社会は自然の起れり。余はこれを階級といわずこれを社会という。一個人はこの社会を通して以て国家に関係する者なり。何をか新社会という。曰く基督教会なり、仏教団体なり、政社なり、商社なり、教育会なり、商法会議所なり、工談会なり、文学会なり、青年会なり、婦人会なり。これ則ち自然に崛起せる新社会にして、相関互交、以て一個人を介して国家と関係せしむるものなり。〔中略〕而してこの新社会たるや、皆な万人協同の精神を以て相交わり、実力ある者を推して首長となし、首長の進退は会員の意志に拠る。来る者は拒まず、去る者は逐わず、過失ある者を却け勲功ある者を称揚す。貴賤貧富、皆な会費の負担に応ずる同一の権利を有し、同一の義務を有す。その精神はコスモポリタン(万人協同)なり。その気風は寛容なり。その進退は自由なり。その結合は自然にして強固なり。その会員は己のものとして団体を愛するなり。その相互の関係は平等なり。その一人の地位は自主なり。〔中略〕さればかくのごとき新社会に介せられて作らるる所の新国家また前年に比して一層の強固、一層の平等、一層の自由、一層の実力を有するやまた疑うべからず。(p115−116)

「階級的の社会」と「新社会(≒アソシエーション)」の対比(福澤や馬場とは異なり、これを能力と結びつける視点はない)。このアソシエーションの称揚には、社会的変動の要因を「社会の結合力」に求める竹越の歴史観が関係している。
・竹越の明治維新
近世社会:各藩の分封体制を幕府の武力によって結合→結合力の衰え→よるべき理想も帰るべき過去もない「乱世的革命」の勃発(勤皇化による復古的革命ではない!)
乱世的革命の「元素(町人、庄屋の実力の増大)」が国体観念に結集→革命へ。成立した明治政府は、当初「勝利者」の専有物であったが、やがて「社会すべての分子の共有物」に。

ここに於てか社会の進歩と共に、皇位の性質もまた更に一大変化を為し、独り強者の意見のみならず、また弱者の意見をも発表し、独り多数の意見のみならず、また少数の意見をも発表する大中、至正、卓然中立の地となれり。〔中略〕ここに於てか、基督教及び自由思想の勢を得ると共に、宗教上に於ける皇位の性質また一変し、皇室と宗教と全然分離し〔中略〕多数なる旧教の上に立つと共に、少数なる新教の上にも親臨し、独り信仰のみならずまた不信仰者の上にも君臨するに至れり。憲法第二十八条これなり。

加藤弘之陸羯南とも共通する考え。
参考1:竹越『人民読本』1913年(慶応義塾福澤研究センター、1988年)。

立憲政体は人民の自由と、個人の存在とを認むるを根本として、成立つ政体なるを以て、此の政体に順応して、己と国と共に幸ならんことを欲せば、最も必要なることは、寛容の精神を社会に充満せしむるにあり。〔中略〕凡そ此の世に、完全なる人物なきが如く、完全なる議論もなし。真理は彼れ此れ、相研き合ふ間に生ずるものなれば、我は我が自由によりて之を主張するが如く、彼が之を主張するもまた、彼の自由なることを忘るべからず。(p217-218)

参考2:大村章仁「竹越与三郎における「自治」と「人民」」『年報日本史叢』2000(2000年)。
竹越の若き日の活動と「自治」について。

竹越は、実直にして、管内人民の痛苦を考え、地方の問題を己れのこととしてとらえる自治の精神を抱いたものを「郷紳士」の理想像としていた。例えば、初期議会における民党の不甲斐なさを責め立て、党中央の人士よりも、「無名の英雄たる地方党員」こそが、民党をして民党たらしめる革新的勢力となることを望んでいた。〔中略〕竹越による「郷紳士」・豪農に対する期待感は観念的なものではなく、上毛の地で湯浅・荻原・高津など、地方の経済振興や廃娼運動に身を捧げた人士に出会えたことによるものである。

徳富蘇峰の「社会」
竹越において個人と国家を「媒介」するものとして捉えられた「社会」は、蘇峰においては「国家の基礎」としての性格を強く持つ(社会の反映としての国家)。
徳富蘇峰『将来之日本』1886年現代日本文学大系』第2巻(筑摩書房、1972年)。
列強によって東洋が侵略されるという強烈な危機意識を背景に、1.西洋社会が「武備主義」から「生産主義」への移行期にあること、2.日本社会もまたその流れに乗るべきこと、を主張。社会の変化(老人と青年の世代交代に重ねあわされる)は国家の変化を促す。

然らば則ち彼の欧州なるものは其昔時に於ては政治社会を以て生活社会を支配したるに係らず。今や其生活社会の進歩よりして政治社会の進歩を促し。経済世界の交際を以て政治世界の割拠を打破り。生産機関を以て武備機関を転覆するは早晩避く可らざるのを命運と云はざる可らず。(p180)

生産主義への移行においては「政治社会」から超脱した「経済上の事実」が必要であるが、「眼を転じて現今の経済世界を観察すれば未だ嘗て独立独行。政治社会の牽制を超脱して其純然たる経済的の事実なるものを見ず」(p213)。そのため政治社会の在り方についても「吾人は今日に於て封建割拠の結合の外に未だ政治上の結合なるものを見ざるなり」(p213)
自由民権運動(特に自由党を意識)についての「日本流若くは封建的の自由主義」という評価(p214)
⇒同書は大隈重信に送られている(米原謙『徳富蘇峰』)
・社会契約説批判

実に自由の世界即ち平民的の社会は彼のルーソーが夢想したる如き質朴野蛮の社会に於て決して行ふ可き者にあらず。〔中略:知力・知識・法などの諸条件を挙げる〕唯だ此の如く進歩したる社会にして始めて人為の結合止んで自然の結合生じ。人為の必要止んで天然の必要生じ。強迫牽制的の運動止んで始めて自由随意的の運動行はるることを得る也。(p189)


・「社会」語への忌避感
・「地方改良」「民力涵養」
建部遯吾『地方改良清算更生農邨百話』丁酉社、1934年。

地方改良といふことは、社会改良といふことである。何故に斯様に言葉を改めたかといふ、その因縁を辿って見るに、社会といふ言葉が、蛇蝎の如く厭ひ嫌はれた時代が、およそ明治年代の始から終までを通して続いた。そのため内務当局あたりの先覚者が、特にこの新しい地方改良という言葉を発明して、更に先輩なる年寄達の穏健なる頭脳にも、悪い響きを与へぬやうにと苦辛した。……地方といへば中央に対するけれども、東京は、大阪、京都と駢んで、同様に一つの地方である。六大都市、その他の市、町、村、府、県、いづれも地方に相違はない。地方改良が出来れば、社会は改良されたというても大体に於いて間違ひない。p3-4

大逆事件の影響
石川啄木「日本無政府主義者陰謀事件経過及び附帯現象」1910年−1911年『石川啄木全集』第4巻、筑摩書房、1970年。
資料の性格:大逆事件の新聞報道の切り抜きと、それについての印象を記したもの。引用は明治43年9月16日の項。

この日安寧秩序を紊乱するものとして社会主義書類五種発売を禁止せられ、且つ残本を差押へられたり。爾後約半月の間、殆ど毎日数種、時に十数種の発売禁止を見、……若し夫れ臨検警官の差押へたる書中、其録する所全く社会主義に関せざるも猶題号に「社会」の二字あるが為に累を受けたるものありしといふに至りては、殆ど一笑にも値ひしがたし。「昆虫社会」なる雑誌(?)の発行者亦刑事の為に訊ねらるる所ありたりといふ。p306

・「社会政策」
牧野英一「吉野作造君の憶ひ出」1933年『理屈物語』(日本評論社、1940年)。

明治の末年に、東京を出発するに当つて、さる先輩をたづねた。西洋で何を研究するつもりかといはれたから、刑事政策社会政策をやるつもりであると答へた。さうしたら、その先輩は、ねんごろに、社会政策とやら何とやら、社会と名のつくものは慎んだがしかるべきだ、と忠告されたことであつた。しかしベルリンへ著いて〔ママ〕見るとワグナーやシュモラーやの先生がたが、社会政策を論じ、社会主義を取扱つてゐられるので、それが、やはり、現代の問題だと考へるの外なかつた。(173頁)

・戸田貞三の回想
戸田貞三「学究生活の思い出」1953年『戸田貞三著作集 第14巻』(大空社、1993年)。
「建部がやってるならいいではないか」

明治三十何年かに、丸善が、レスター・ウォードの『ダイナミック・ソシオロジー』という書物を輸入しようとしましたが、許可制なので、当局に問いあわせたところ、『ダイナマイトの社会主義』だろうというので、「とんでもない、絶対いかぬ」ということになったというのです。また、後に京都の米田庄太郎先生から、「戸田君、君は建部遯吾教授が社会学界に偉い功績のあることを知っているか、ぜひ覚えておかなくてはならないことがあるんだ」と前置きして聞かされた話に次のようなのがあります。第二次山縣内閣の時のことだったそうですが、ある時政府の役人が、日本の大学に社会学のようなものを置いてはいかんといった。すると山縣は、一体どこで誰が社会学をやっているのかと問うた。それは東京の文科大学で、建部という教授が担当してやっていますと答えると、山縣は、「建部がやっているのか、それならいいじゃないか」といったので、その結果、社会学というものが潰れないで済んだというのです。(p176)

「ダイナマイトの社会主義」のくだりは、夏目漱石『思い出す事など』も参照。
勅語にも社会という言葉が出て参ります」

戦時中も、社会学に対する圧迫が強く、妙に神がかりな連中からみれば、社会主義社会学も区別がなかったのは、昔も同じでした。
これについては面白い話があります。文部省のある会議に出席したのですが、京都大学の某教授が委員になってきておりました。その人がその席上、日本には社会などというものはないといいだしたのです。〔中略〕そこで、私は、「ただいまのような発言は時々耳に致しますが、どうかと思います。勅語にも社会という言葉がときどき出て参ります。もし社会というものが日本にないといわれるなら、陛下はないものをあるようにおっしゃることになりはしませんか」とあっさり答えました。すると先方は黙ってしまったわけです。あのような連中がそういうことをいうだろうと思って、前もって勅語を調べておいたのです。(p184)

戸田はこの撃退法を、出征する自分の教え子(中野卓)にも教えている。
中野卓「敗戦前と後の戸田先生と私」『戸田貞三著作集 別巻』大空社、1993年。

ひとつ、戸田先生の御教えが軍隊で直接役に立ったことがありました。「おまえたちが軍隊で、社会学は『国家とは別に社会というものがあるなどというのはけしからん』といわれたときには、『戊申証書に「国家と社会」とおおせられている』と反論しろ。必ず相手は閉口する」と教えてくださいました。(p298)

ところで、戊申証書に「国家と社会」という文言は出てこないのだが、これはどういうことだろうか?
「国民精神作興の詔書」(大正12年)には終わりの方に「国家の興隆と民族の安楽社会の福祉」という一節が。内務省社会課・社会局の設置を経て、官僚に「社会」への忌避感がなくなったことと関連?大正11年の学生頒布50周年の勅語に「社会の品位」なる語が出てくる。村上重良『近代詔勅集』に収録されているなかで「社会」が使われるのは、この2例のみ。
勅語における「社会」「福祉」
タイトルはすべて村上重良による。
学生頒布五十年の勅語(大正11年10月30日)

〔前略〕惟ふに教育は心身兼ね養ひ知徳並ひ進むを尚ふ国家の光輝社会の品位政治経済国防産業等の発達一として其の効に待たさるなし〔後略〕

国民精神作興の詔書(大正12年11月10日)

〔前略:国民が守るべき徳目を列挙して〕以て国家の興隆と民族の安楽社会の福祉とを図るへし〔後略〕

朝見式の勅語(昭和元年12月28日)

〔前略〕輓近世態漸く以て推移し思想は動もすれは趣舎相異なるあり〔後略〕

即位礼の勅語(昭和3年11月10日)

〔前略〕朕内は則ち教化を醇厚にし愈民心の和会を致し益国運の隆昌を進めむことを念ひ外は則ち国交を親善にし永く世界の平和を保ち普く人類の福祉を益さむことを冀ふ〔後略〕

「社会の福祉」から「人類の福祉」へ。この「人類の福祉」はその後、「国際連盟脱退の詔書」(昭和8年3月27日)、「昭和21年年頭の詔書(人間宣言)」(昭和21年1月1日)にも登場。
明仁天皇の「お気持ち」表明と「社会に内在」する天皇
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・社会史について
1.先駆的な仕事―心理的社会学と社会史
遠藤隆吉『社会史論』同文館、1905年。
著者の関心:社会史を政治史から分離することp10 
⇒社会が維持されるための根本事実、社会の精神を記述すること。それは「個人の交通」であり、「個人の交通は個人意志の結合」。p16
「社会史は社会其者の変遷を叙述する心理的の歴史」p23
⇒「智識」「模範的精神」「文明」の叙述という形をとる。

例へば社会史を修むるには社会学の完全なる智識を要す。然るに社会学其物を修むるにも宗教学、言語学法律学、経済学、倫理学等の知識を要す。……故に社会史を修るは最も困難なる事業なりき」p51

(参考:秋元律郎『日本社会学史』(早稲田大学出版部、1979年)。)

遠藤によると、社会学は、なによりも社会現象を対象とする「記述的帰納的科学」として性格づけられるものであり、事実の究明を目的とするところにあるという。「社会学は嘗て存在し、又現在しつつある社会現象を基礎として真理を帰納し得んとする科学にして理想などには絶て干する所なきなり」というのは、こうした意味で、社会学を厳密な経験科学として基礎づけようとする意図をあらわしたものということができよう。(p124)

遠藤は社会学を「具体的社会史」「具体的社会史論」「社会学研究法」「社会現象論」の四部門にわけた。「社会学研究法」とは社会現象を「個人の意思結合現象」としてとらえることであり、その材料を社会史から集め、社会現象を論じるという体系。
遠藤はデュルケムの影響を受け、「人間を余儀なくするところの力」=「社会力」の存在を仮定。これと意思結合との関係は「意思結合の結果が社会力を生ずる、或は社会力に依りて意思結合を引起させる」というもの。(p126)
2.大正の社会史
三浦周行『国史上の社会問題』1920年(岩波文庫、1990年)。
「世界大戦の前後から、我が国でも社会問題が喧しく論議されるようになったが、それを取り扱う学者論客の多数派、非歴史主義の人と申してよかろう」p13。そこで社会問題、社会政策、社会運動の歴史を書く。政治史に対する社会史、という認識。
律令制の口分田を社会政策として、平安時代の僧侶が罪人に与えた念仏を「今の監獄教誨師」になぞらえる。

社会民心に直接影響のある本問題〔社会政策〕のごときは、いたずらに事情を異にした西洋の直訳や純理に走るよりも、これらの歴史的事実を顧慮し、参酌して、機宜に適する処置を取った方が、その実行を挙ぐる上に一層望ましいことであろうと思われる。(p167-168)

京大史学科では、1913年の講義題目に「日本社会史」が登場(内田銀蔵による)。三浦もそのあとをうけ「日本社会史」を担当(1916〜1917)
三上参次「歴史家として観たる貧富問題」『日本社会学院年報』9(3・4・5)、1922年。
社会主義共産主義ユートピア思想に過ぎない、と批判したうえで

私は歴史家の立場として、吾々の先祖がやつて居る事、又先祖の学んだ支那人のやつた事を研究して見ると、西洋人が十七世紀十八世紀十九世紀頃から始めた事よりも、余程学ぶ所が多いと云ふことになる、今日の講演は私は自分の専門である学問に就いて一種のプロパカンダをやつたやうに当りますけれども、此プロパカンダは大に善い事であると思ひますから、甘じて其評を受ける積であります。(p139)

ここまで