「実証」の概念史
・先行研究
positiveという言葉はラテン語の動詞pono(英語ではsetに相当)に由来し、その過去分詞positumが形容詞化されることでpositiveになった。これが「事実的」「実証的」という意味を持つようになったのは、木田元によると弁神論に由来するという。弁神論者たちは(しばしば理不尽な)世界のありようについて「神がpono(=定めた)したものなのだから、人間の理屈で推し測ってはならない」と説いた。これによって非合理な事実を「神によってponoされたもの=positiveなもの」と呼ぶようになった。「positive=事実的」という用法が神学由来であることはヘーゲルの時代までは意識されていて、ヘーゲルの未完の草稿『キリスト教の精神とその運命』では非合理的な宗教的戒律をpositivitätと呼んでいる。(木田元『わたしの哲学入門』新書館、1998年、271頁以下)
日本において「実証」という語は、「確かな証拠」という意味で(『吾妻鏡』文治元年10月23日など)前近代から使用されてきたが、positiveの訳語として使われるようになるのが何時かは不明。『日本国語大辞典』では「実証哲学」の用例として上田敏『思想問題』(1913年)が挙げられている。
2013年に出た『哲学・思想翻訳語辞典(増補版)』では、以下のようにある。
その後、西の訳語「実理哲学」は明治19年(1887)に同じ明六社の西村茂樹『宗教の前途』に採用されるが、これ以降中江兆民の「着実説」「現実派哲学」、井上円了、木村鷹太郎、遠藤隆吉、岸本能武太、綱島梁川らの「実験哲学」、建部遯吾、井上哲次郎、浮田和民らの「積極哲学」などの訳語と競合する。〔中略〕現在の「実証哲学」の最初の使用は比較的遅く、明治33年(1901)の桑木厳翼訳『ジーベルト氏最近独逸哲学史』においてである。それは当時もまだ数ある訳語の一つに過ぎなかったが、明治41年(1909)にこの訳語を採用した『コムト』(富山房)の中で、著者小林郁はこの語の利点を端的に説明している。〔中略〕西のように理法(法則)の探求に特化する「実理」では意味が限定され、且つ「究竟的理想」であり、「実証」の方が科学的方法論としてより広い意味内容を包含できるという判断が小林にはあったように思われる。実際、明治40年以降は「実証哲学」の訳語が徐々に定着していく。
社会学史の文脈で考えると、明治期においては社会進化という普遍的法則の探求が目的であり、その素材を求めて日本社会の事実が博物学のごとく集積された。目的=普遍的法則、事実=手段。明治後期〜大正期にかけて目的=普遍的法則の探求が後景に退き、手段それ自体が注目されるようになったことに対応(むしろ「目的」の位置を占めるのは社会諸科学それぞれで異なる何かとなり、目的よりも手段のほうが普遍的とみなされるようになったと言うべきか)。
・positivismはいかに訳されたか
1.西周の「実理学」
・西周「生性発薀」1873年(西周全集』第1巻、宗高書房、1960年)。原文カタカナ。
この論文は未定稿のまま残されている。実質A.コントの紹介。
〔これから述べようとすることは〕法〔フランス〕の墺胡斯、坤度〔ルビ:アウゴスト コント〕か実理学〔ルビ:ポジチヒズム〕に淵源し〔後略〕p36
坤度の学自ら号してポシチヰズムと謂ふ、以て超理物質の諸流派に別つ、ポシチーウは定実確等の意爰に実理学と譯す(p36)
以下コントの紹介や哲学史上の位置づけが続く(正確な紹介だと思う)が、詳細は以下。
CiNii 論文 - 西周の『生性発蘊』とコントの人間性論 : 資料としての検討
なお、この論文ではsociologyを「人間学」と訳している。西が心理学に強い関心を寄せていたことと無関係ではないだろう(1882年の「尚白箚記」ではsocietyは「社会」sociologyは「社会学」)。
〔人間学について〕是亦坤度の創意、ソサイテの語より変成する者、人間相生養の道を論し、其中に政事法律教法等の科を兼ねる哲学なり(p48)
この「実理」と「人間学」の要諦として、西は次の2点を強調する(p51-53)
(1)事実の観察を行うまえに「理の講究」を必要とする。さもなければ各自の観察を突き合わせること、記録することもできないし、事実を知覚することもできない(事実の観察はそれに先立つ認識枠組みを必要とする、ということか)。一方、「正しき理上の講究は、必す正しき視察を要するなり」。
(2)「事実の観察」と「理の講究」の相互作用という段階(実理学)よりも前の段階(神学や形而上学)では、学問は物事の根本原因(原由)を措定し、そこから演繹的に理論を構成する。実理学はそれを避けなければならない。
万象と、万象を生する所以んの者との間に、理外の者をも、又超理家虚体の理てふ者をも、置くことを止めて、唯万象のみに、意を注き、総て万象を取て、之を理法〔Natural Lowの訳〕として見ることなり、即ち左右相並ひ、前後相次いて生する、一定不易の関係てふことにて、之を以て、万象を類別することなり、故に夫の虚体と、原由との、講究を排斥し、極知極功の口実を廃棄して、理法を発明すること、人間の一大眼目となれり(p52-53)
それなのに最近の医学は……というコントの生気論批判を紹介(p54)このようにコントを好意的に紹介しているわけだが、彼の人類教の扱いについては困っているようだ(p63以下)。
なお、西がコントを紹介した動機として、法律を人間の普遍的な性理によって基礎づけようという自然法的発想があるようだ(p65)
・西周「心理説ノ一斑」1886年(『西周全集』第1巻、宗高書房、1960年)。原文カタカナ。
〔前略。ヨーロッパの学者の名前が続いて、最期にJ.S.ミルが出てきて〕インダクチーブ即ち帰納法の論理を首唱してより、諸哲の論も漸くメタフヰシックの境域を脱離して、実理〔ルビ:ポシチープ〕の境域に進むに至り、従て心理の学も亜歴山 倍因〔アレキサンドル・べイン〕氏など出てて頗る格物学に准したる方向を取りたり、然れども確実の度は中々及ひ難くして、化学にて朱を分析して酸素と水銀を得るか如く、人頭脳髄を分析したりとも霊魂や、知識や、情や、意を得ること能はあるなり、然れとも外部に顕はるる現象と自己の体験等に因て概略は推測し得へきなり(p586)
西周「尚白箚記」1882年(『西周全集』第1巻、宗高書房、1960年)。
西が「理」を訳語として用いる際、宋学的な用法との峻別をどのように行っていたのかについて。
〔「西洋人は未だ理を知らない」という頼山陽の評を踏まえ〕然れと、歐人は理を知らさる所かは、理と指す中にも色々の区別ありて、一層緻密也と謂ふ可し、然れと宋儒の如く何も斯も天理と説きて天地風雨の事より人倫上の事爲まて皆一定不抜の天理存して此れより外るれは皆天理に背くと定むるは、餘りに措大の見に過きたりと謂ふ可し、茲より爲ては疎大なる錯謬に陥りて、夫の日月の蝕、早魃、洪水の災も人君の政治に関係せりと云ふ妄想を生するに到る可し(p170)
西周「理の字の説」1889年(『西周全集』第1巻、宗高書房、1960年)。
理の字は玉の紋理より取る、即ち玉の木目なり〔中略〕さて転して事物の際タに具はる直路〔ルビ:スジ〕、即ち道に假り用ひたる者と見ゆ、其直路〔ルビ:スジ〕即ち道と云は、言を換へて言へは其事物の際タの関係にて、譬へは此家と彼家との際タたには、行く可き径路あるか如し〔中略〕然らは何を以て之を道と謂はすして理と謂ふやと云ふに、道とは天道、人道、王道、覇道、正道、臣道、婦道、また悪き方にては左道、邪道など謂ひ率ね其直路〔ルビ:スジ〕の大ィなるものを指す、而て理といふは概ね微細にて遽に観て観難きものに就て謂ふ、譬へは玉の如く粹然たる一片の玉なりと雖も、諦視して始めて其間に纎理の存するを視るか如き同しく是直路なりと雖も、顕然たらさる者に就て謂ふ也(p598−599)
理は第一に注視して初めて見つかるものであり、第二に事物の関係(其間)にある。
蓋し理といふ者は虚体にして、其気稟性質の一定するに従て其の事物に応する際に現るる所の関係にして、唯人心の其関係を察するものに於てのみ観る可き者とす〔中略〕仮令へは火の水に対し、木の金に対し、子の父に於ける、婦の夫に於けるか如し、其中間に必す一定の理即ち関係の存せさること莫し(p600)
物と物の関係は「物理」、人と人の関係は「倫理」。ただし後者は前者ほど一定ではない。
以下は「理」を媒介とした哲学需要の一般的傾向(=西周が距離を取ろうとしたもの)について。建部社会学にも当てはまるのではないか。
更に考えねばならないのは、理の文字の厭避である。先に「性理論」に付された西周の跋文を記したが、この跋文の字句に着目すべきは、「西人論気則備、論理則未矣」の語句である。その意味するところは、気、すなわち形而下の現象について西洋の学問は微細に論ずるところがあると認められるが、理、すなわち形而上の原理については東洋の学問に比べて未だ不十分なものでしかない、というものである。これは、これまで百年に渡って物理化学工学という諸科を西洋から学んできたけれども、哲学という一科を学び知る人が居なかったために、我が国の知識人に生じていた受け止め方の特徴を捉えて西周が表現したものである。
http://www.ff.iij4u.or.jp/~yyuji/kcollection/kcyakuji.html
そしてこの受け止め方は、幕末から明治初頭にかけて、儒学しかも特に朱子学に思想的に養われた知識人が、哲学の吸収に際して取った保守的態度の動機を構築するものでもあった。西周は尚白箚記に次のように記している。「然て理と云ふ辞、歐言にては的訳を見ず。其故にや、本邦従来の儒家は「西人未曾知理」(此の語山陽先生の書語題跋に見ゆと覚ゆ、勿論当時は歐の學未だ開けざる故なり)と云へりと見ゆれど、是理を知らざるには非ず、指す所異なる也。」宋儒によって詳細に議論され、その微細な知識を修得してきた儒家達は、理という儒教的概念を持ち出すことによって、東洋思想は西洋の思想に対抗できるし、また一定の優位も見いだせるものと考えていたのである。
従って西周が哲学の訳字説明において、「理学、理論などと訳するを直訳とすれども、他に紛るること多き為に」と記すとき、そこに深刻な背景を想像しなければならないであろう。実際西周は「理の字の説」などの諸論文をもって、理の概念についてその意味を論究していくのである。
「理」については、以下も参考になるだろう。
〔清代の考証学について〕戴震によれば、「理」の意味は本来次のようなものだ。理とは、よく観察して細かいところも弁別するということを指す。物質において「肌理」とか「文理」というのがそれだ。うまく分けられれば秩序立って乱れないので「条理」ともいう。理とは、情にはずれていないということである。(中略)ここでいう「情」とは、人々の微妙な心情やものごとの細かい事情を指すものであろう。「理」とはそうした現実の複雑で微妙なあり方と切り離されて独立の実在物のように存在するのではなく、そうした現実の細かい弁別そのもののことなのである。(中略)「情」の繊細さを押しつぶす「理」の強引さに反抗し、「事実求是(事実にもとづいて正しさを追求する)を提唱する考証学の一側面が、当時の小説に見られる細部のリアリティへの関心や人の心の柔らかさへの嗜好と一脈通ずるものがあるのではないか、ということを指摘するに留めたい。
(岸本美緒・宮嶋博史『世界の歴史』第12巻、中公文庫、439頁)
日本の朱子学においては、貝原益軒、西川如見、新井白石、山片蟠桃、佐久間象山などで強弱があるが、「理」の経験的側面が重視されて、やがて「気の理」として、「気」が主体に躍り出ていく。〔中略〕その「気」を貫く「理」の学の重要性、すなわち自然を貫く原理原則が蘭学・洋楽の影響下で再認識されていく。
朱子学を否定した古学派や陽明学派、本木良永・志筑忠雄らの通事学派、三浦梅園・帆足万里といった独立派も、この経験的合理主義を加速し、「性理学」「窮理学」の意味を深めた。その結果、認識の対象としての自然と、その自然認識の方法としての学理の分離・切断が生じていく。こうして、いったんは学の主体に躍り出た「気」も解体・分割されて、新たな「理学」へと整序される。
こういう過程は「気の消去」(塚原)というよりも、「理の再認識」の動きを伴うという意味で、「気の揚棄」(Aufheben des Qi)というべきであろう。
(金子務「近代日本における「理学」概念の成立」鈴木貞美・劉建輝編『東アジア近代における概念と知の再編成』国際日本文化研究センター、2010年、210頁)
2.岡百世の「実験」
岡百世「オーギユスト、コント」『社会』1号、1899年。
雑誌『社会』は、加藤弘之(会長)、元良勇次郎、高木正義、富尾木知住、武井悌四郎、岡百世を発起人とする「社会学研究会」によって刊行された(のちに『社会学雑誌』と改称。1902,3年ごろに廃刊)。岡は漢学者・岡千仞の子(詳細不明。あとで追記するかも)
社会改良のための実用的な学として社会学を普及させることを目的とした『社会』の第1号で、岡は社会学の創始者であるコントを懸賞する論文を書いている。この論文ではpositiveの訳語は「実験」で統一されている。positivismを科学的な方法論として捉える岡にとって、「科学的」なものとは実験的(おそらく物理学・化学的)なものだったのではないか。
(コントの三段階説について)今や社会の研究は建設的となり、証明せられたる事実を限拠となすに至れり。此れ実に今日の社会学なりと。彼は此の如くして、其大著実験哲学中に社会学を論じ、社会も実験的に研究せらるべきことを唱へ、従来の迷妄を撹破し、宗教的空想的研究の大いに世を謬りたることを説き(p51)
(フランス革命期のなかで暴力的な革命ではなく社会改良を企図したコントを称賛して)吾人の実に要する処は社会の真正の研究にあり。然らば社会の真正の研究とは何ぞ。即ち此れ社会の科学的研究此れなり。而してコムトは此多難なる時代に生れ、社会の改造せられざる可らざることに着目し、遂に其実験論より科学としての社会学を論じたり(p52)
・黒岩涙香「霊魂不滅の説」1903年(『精力主義』隆文館、1904年、30頁)にも「昔し仏のコントは実験哲学を著すに当り」とある。
3.「実証」と「実理」
positiveの訳語が1920年代に至っても「実証」と「実理」のあいだで揺れ動いていたことの一例として。
・加藤玄智『東西思想比較研究』京文社、1924年。
ところで目を転じて仏蘭西の哲学界を考察して見るに、忘るべからざるものに彼の有名なるオーギユスト、コントといふ哲学者が現はれて居る。〔中略〕即ち今日は実証哲学の時代である、実理主義の時代であると……かうした主張に極力努めたものが有名なコントの積極主義或は実証哲学或は実理主義などと呼ばれて居る学説であつて、コントは此立場からして哲学に代へるに社会学を以てし、彼れ自ら社会学の創始者となつたのである。(p122-123)
之を要するにコントの立場も前に述べたカントの立場も或点に於ては同一であって、要するに従来の形而上学が大切なものとして居つた本体とか実体とかいふ原理を排斥して現象界の知識のみを以て確実なものとしてそれに依つて哲学を組織しようと図つたものである。(p124)
4.建部遯吾の「実理的」「実理主義」
建部が主催した(会長というわけではない)『日本社会学院年報』をみると、建部の影響かpositivismを「実理」とする論者が多い。米田庄太郎が「実証主義」とするのは、この雑誌のなかではむしろ例外的。
建部はコントのPositif,Positivismeを「実証的」「実証主義」とはせずに、「実理的」「実理主義」とすることに徹した。……「コムトの所謂Positiveは明に東洋従来の健全なる思想の正徑に在りて脈々として伝承相継ぎたる実理の意義に該当するをPositivismeは実理主義なり、断じて「実証主義」にあらざるなり。」〔『普通社会学』第4巻、1918年、183頁〕
(川合隆男「解題」『日本社会学院年報』第1巻)
建部によると、社会思想は「神学的宗教的」から「形而上的哲学的」そして「科学的実理的」なものへと進化している。この三段階説はコントに依拠しているが、「実理」観についてもコントを踏襲しているという。
ポジチヴと云ふのは斯様に実在、実用、確定、精密、建設、相対の六義を含んで居ると云ふことであります故に、どうも我国の哲学社会の先輩からは、訳して「実証」或は「実証的」と言はれますけれども、此漢文字が果して適当なりや否やに就いては聊か疑を懐く次第であります。(5頁)
建部遯吾「一二の社会学的根本観念に就いて=実理観、進化観、渾一観」『日本社会学院年報』7巻1・2・3号、1920年。
抑々宇宙間には理と云ふものがある、所謂宇宙に塞つて一理あり、此理、或は理法、或は法則、之を審かにし、これを明かにし、之に則りて人間万事の行動の準則は立つ、と云ふことに帰着する。(7頁)
・岩井龍海「社会的宗教」『日本社会学院年報』9巻3・4・5号、1922年。
然らば私の社会的周っ今日とは、どういういふ意義〔ママ〕かといひますと、実理に協合して社会の秩序を維持し且其進歩を促進する宗教をいふのであります。(p69)
さて実理とは如何なる意義か、これには六義あります。実在、実用、正確、精密、建設、及相対であります。これらの説明は省略しますが、苟も完全なる社会的宗教は必ず此六義を具備することが必要であります。(p596)
社会的宗教(この場合「あるべき姿の仏教」)⇔迷信・淫祠・変態・秘儀
5.米田庄太郎「実理主義」から「実証主義」へ
「理」にこだわった建部とは異なり、米田においては「社会学は『実学』か『理学』か」という形で問いが立てられる。(どちら寄りかを選択しなければならない)
ただ、この場合でも
実学=理想の探求、規範にかんする学
理学=直観の純化、概念の精緻化=社会学はこちら寄り
という風に定義されており(「理≠理論」)、「よく観察し弁別する」という考証学的な「理」の使い方から外れていない。
〔社会学の職分は本来「哲学的」であると述べて〕今日哲学と云ふは、つまり忠実なる観察者が現実なる事実の上に施せる具体的研究の結果を、精確なる理法に於て組織せんとする実証的考究なのである。
(「社会学の観念の批判及樹立」『日本社会学院年報』4・5号、1912年、500頁)
しかし、最初から米田が「実証主義」という言葉を用いていたわけではなかった。
・米田正太郎『現今の社会学』私立岡山県教育会、1906年。
〔社会学の対象である「物」について〕然らば私の茲に物と云ふのは何であるかと云ふに現象の基礎、原因にして吾人の経験以内で知り得る処のものである経験を超越したる形而上的の本体ではない、今此の如く物を解すれば物は明らかに学問の対象となることが出来る。此解釈は尤も極端にコント流の実理主義を主張して居られるマヌヴリエー氏なども矢張り採つて居られます。同氏は此の如くに物を解すれば此を対象とするが為めに学問は実理的性質を失ふと云ふ事はないと論じて居られます。(p11)
第三には〔コントは〕社会を研究するには実理的方法を以て研究しなければならぬと論せられました==此実理的と云ふ言葉は是まで実験的或は実践的と譯されてあつたが実理的の方が適当のやうであります==実理的とは何かと云ふと、形而上学或は神学の如く実体を仮定して研究するのでなくして、現実なる事実其のものを捕へて経験の範囲内で説明を試みることである、第四に先生は自分の実理主義の上からして社会学は社会の現象を研究するもので社会の実体を研究するものでないと主張して居る、コントの実理哲学の根本の観念は人間の智識は相対的であつて絶対的でない、であるから絶対的なものは知ることは出来ないと云ふのである、そうしてコントは実体と云ふことを絶対と解したから社会学に於ても吾人は只相対的である社会現象を研究するに止まる可く人知の及ばざる社会の実体と云ふ様な事は学問上研究し得る限りのものでないと考へたのである〔中略〕併し実体は必ずしも絶対的に解せなければならぬものではない相対的に解し得るのである又相対的の意味で実体の観念は学問上甚だ必要である(p35)
・同書における学問の分類および社会学の位置について。
http://f.st-hatena.com/images/fotolife/t/tukinoha/20140401/20140401165047_original.png?1396338710
上の表によると、社会学は「社会理論学」の一部であり、社会主義や社会政策は「社会実際学」に属する
普通の人に社会学を研究して居ると云へば、それでは監獄改良或は事前問題の研究をなさるのですかと問返される、啻に普通の人々のみではなく学者の内にも社会学と云ふ名称の下に種々の実際問題を論する人々もあります併し私共は監獄改良問題、慈善問題などの実際問題は総て之を社会政策学の中に入れて組織立てて研究し社会学と云う名称を社会理論学の一部分の名称として保存して置きたいと考へます(p32-33)
・同書における「社会法則」をめぐる学説史
社会法則は存在するのか、それは自然法則と同じものなのか。――たとえば自由意志をめぐる問題がある。社会は人間によって構成されている。ならば、人間を動かす心も物質のように扱えなければ、自然法則と同じようには扱えないのではないか。
米田はタルドの考え――学問は予見を生命とする――を肯定的に引用(のちに米田も「社会学的予見」という論文を書く)。
米田自身は、自然科学と同じ厳密性をもった社会法則は存在するが、まだ見つかっていない。また「理法〔=法則〕は一種ではない」(p31)←「生存競争」「淘汰」一辺倒の社会有機体説への批判か。
・米田はいつ/なぜ「実証主義」に変わった?
「民法の社会学的基礎に就て」(1911年)ではすでに「実証哲学」。
・加藤弘之と「ニニが四」
加藤弘之『自然と倫理』(実業之日本社、1912年)
統計学なるものが開けた以来は種種の自然科学に於ける外社会学・政治学・経済学等にあつても全く欠くべからざるものとなつて統計に依て始めて種種の実験実証が出来るのであるが是は確かに数理が凡ての学問上に必要であるといふ一の明かなる証拠であると思ふ何としたとて数理程確かなるものは決してない「ニニが四」はいつでも「ニニが四」で「ニニが三」にも又「五」にも決してならぬ「三三が九」はいつでも「三三が九」で「三三が八」にも又「十」にも決してならぬのである。(序p18)
・「標準」概念について
外山正一『民権弁惑』(丸屋善七、1880年)
政府の職掌は開化の程度に従って変化するものであり、普遍の職掌があると考えるのは「自己の臆断を以て標準となし一個の独見を以て天然の規律なりと妄信するに異ならず」(p14)