エドワード・W・サイード『知識人とは何か』

知識人とは何か

知識人とは何か

ウェーバーの「精神なき専門人」という官僚制についての規定はよく知られているが、本書においてサイードが展開した議論は、「精神なき専門人」となった知識人を、いかにして普遍主義的思考に立脚した本来の知識人へと転換させていくかに重点が置かれている。知識人と愛国者、知識人と国家の結びつきを自明視しないという点で、ディアスポラ知識人であるサイードらしい知識人論だな、という印象を受けた。邦訳で200頁程度の短い分量だが、これまで『オリエンタリズム』や『文化と帝国主義』で述べられてきた話をおさらいしておくのにも適当な内容となっている。
本書で提示されている「知識人」の要件を列挙して行くと、「われわれ」というカテゴリを留保なく使うことや(それは「かれら」というカテゴリを自明視することでもある)、虐げられている「かれら」に加担することで「彼ら」の内部の権力関係に対して盲目になることを批判し、集団内部の異種混淆性を指摘することがひとつ。次に「アウトサイダーであり、「アマチュア」であり、現状の攪乱者である」こと。そして、自国の利益だけを考えたり、専門人として特殊な利害関係にのみ囚われたりするのではなく、むしろ「人間の悲惨と抑圧に関する真実を語る」普遍主義的な思考をもつこと。以上の3点が挙げられている。サイードは「亡命者とは、知識人にとってのモデルである」と述べているが、知識人はどの国家の利益にも奉仕しない/されないことを覚悟する周辺的存在であり、だからこそどの国に対しても批判することが出来る。サイードにとって知識人の役割とはまず、「われわれ」と「かれら」を分断する権力に対する批判を、「われわれ」でも「かれら」でもない個人として行うことにあると言える。

インサイダーは特殊な利害に奉仕する。だが知識人たる者は、国粋的民族主義に対して、同業組合的集団思考に対して、階級意識に対して、白人・男性優位主義に対して、異議申し立てをすべきである。
普遍性の意識とは、リスクを背負うことを意味する。わたしたちの文化的背景、わたしたちの用いる言語、わたしたちの国籍は、他者の現実から、わたしたちを保護してくれるだけに、ぬるま湯的な安心感にひたらせてくれるのだが、そのようなぬるま湯から脱するには、普遍性に依拠するというリスクを背負わなければならない。いいかえるとこれは、人間の行動を考える際、単一の規準となるものを模索し、それにあくまで固執するということである。外交政策や社会政策を考えるとき、これが、ゆるがせにできない問題となる。つまり、もし敵による不当な侵略行為を非難するならば、自国の政府が弱小国家を侵略した場合にも、ひるまず非難の声をあげられるようになっていなければならないということだ。

そして知識人は、このような普遍性の立場に依拠しながら、何らかの立場を代表(=表象represent)することにその意義がある、とサイードは述べる。では何を代表representするのか?という点に、おそらくサイードと他のポストコロニアルの論者(特にスピヴァク)との相違点があると思われる。
イードは次のように述べる。「知識人が、弱い者、表象=代弁representされない者たちと同じ側にたつことは、わたしにとっては疑問の余地のないことである」。村上春樹の「卵と壁」を想起させる文章だが、自ら語る力を持たない弱い者を表象representすることと、彼らの声を代弁representすることは、果たして同じなのだろうか?という疑問がここで浮かんでくる。たとえサイードディアスポラであっても、彼が西洋社会に身を置きながら発言していることに変わりはない。原著のタイトルは『Representaion of the Intellectual』だが、representaionのダブルミーニングは文字通り受け取ってよいのだろうか?
アマゾンのカスタマーレビューには「自分は普遍性の原則を語る「知識人」だって発言することができているのは、世界最強の軍隊に守られた地にいて、大学教授っていう安定した地位を与えられているからだよね?パレスチナに暮らす一般人はそんなこと言っていられる余裕なんてないよね?」という批判が書かれているのだが、それは概ね正しいと思われる。「パレスチナに暮らす一般人」はただ自説を発表する機会を奪われているだけでなく、自分たちが今、世界からどのように見られているのか、世界の中でどのような立場にいるのかという全体性を知る機会を奪われている。それに対して知識人は「パレスチナに暮らす一般人」を全体性の中で位置づけようとする。知識人は代弁者というより、解釈者である。この違いを考えれば、「表象=代弁=represent」という等式には疑問符をつけざるを得ないだろう。