ジャン=リュック・ナンシー『無為の共同体』

無為の共同体―哲学を問い直す分有の思考

無為の共同体―哲学を問い直す分有の思考

過去に2回ほど挫折したのだけど、今回はなんとか最後まで読み通せた。この読みづらさは何なんだろうと考えた場合、丁寧な訳注を見れば翻訳が悪いとはとても言えず、さりとて自分の頭が悪いとは認めたくないしで、結局いろいろな前提となる知識をすっ飛ばして書いた著者が悪いのだという結論に落ち着いた。4時間かけて読んで3分の1くらいしか内容が把握できなかったが、残り3分の2は他日を期すということにして、今回はその3分の1で把握した漠然としたイメージに基づいて書評を書いてみよう。
ナンシーの言う「無為の共同体」とはおそらく、どのような意味においても現実の共同体に適合することはないだろう。これは翻訳の問題でもあるのだが、日本語では「共同性」とか「社会性」という方がニュアンスは近いように思われる。それも規律や慣習によって作られる社会性ではなく、人間にとって最も根源的な社会性によって生じ、そこに属する者の同一性には決して還元されえない場が「無為の共同体」である。具体的なイメージとして、自分の知らない外国語で話しかけられ、何とかして意思疎通を行おうと悪戦苦闘するような状況を想像してもらいたい。この場合、日本語しかわからない「自分」と外国語を話す「あなた」との間には大きな隔たりがある。「自分」は「あなた」のことを完全に理解することが出来るとは思っていないだろう。しかし、理解されないだろうと思っているにも関らず、「自分」は「あなた」に向けて語りかけようとする。言葉が通じないと知っているからこそ、一生懸命話そうとする。この場合、「自分」と「あなた」を結び付けているのは同一性や共感可能性ではなく、むしろその逆、隔たりであるというべきだろう。

諸々の特異性を通い合わせるものは、たぶん厳密にはバタイユがそれらの引き裂きと呼んでいるものではないだろう。引き裂かんばかりのもの、それはほかでもない共同体におけるそして共同体による有限性の呈示である――私が服すべき三重の喪、すなわち他人の死の喪と私の誕生の喪、そして私の死の喪という三重の喪の呈示である。共同体はこの三重の喪の導きである。

一般的な考えでは共同体に先行して個人が存在し、個人の集まりとして共同体が生み出されるとされている。そして共同体の存在を担保するのは、それに属する人間の共通性である。このような考えをナンシーは逆転させ、個人に先行して共同体が存在し、また、共同体とはそれに属する人々の間の「隔たり」そのものであるとする。共同体のこのような性質が顕著に現れるのは、そこに属する人間が死んだときである。共同体主義者は個人の死を共同体の成員がともに経験し、また、命の短さを共同体の永続性によって補うことができると考える。しかしそうではなく、個人の死に際しては死者本人が疎外されているのと同様に、それを見送る共同体のメンバーもまた「他人の死は本質的に経験不可能である」という意味で他者の死からは疎外されている。共同体の中で起こる死という出来事が示すことは、自らの死から疎外されることによる「主体」概念への不信と、同じ共同体に属することで同一化を試みる共同体主義の否定である。共同体の中にいることで初めて我々は「隔たり」を手に入れるのだ。
この2重の隔たりがあるにも関らず、われわれは誰かの死に際してそれを悼み、死者の感情を理解しようとする。不可能であると知りながら他者を理解しようとすること、これはどのような機能にも還元されえないという意味で、もっとも純粋な社会性であると言えるだろう。また、ナンシーにおいては「全体主義」こそが共同体を破壊すると考えられている。

社会はあたうかぎり共同的ではないのかもしれないが、社会という砂漠の中には、たとえ微小で捉えがたいほどだとしても、共同的なものがいささかもないということはありえない。私たちは共ー現せずにいるわけにはいかないのだ。ただファシズムの群衆だけが、具現された合一の狂気の中に共同体を無化してしまう傾向を示す。

一見すると逆説的だが、共同体とはすなわち「隔たり」であると考えるナンシーにとって、それは極めて自然な結論である。
また、アレントが『人間の条件』の中で、世界=公共圏について「世界はあらゆる<間>in-betweenがそうであるように、人々を関係づけると同時に切り離す<間>である」と述べているように、公共圏の議論では常に<間>を意識し、例えば発言の手段を持たないマイノリティに「成り代わって」自分が発言しようなどといった考えを抑えなければならないとされている。しかしそれはネガティブな意味においてだけではなく、「裂け目こそが結び目になる」ということでもある。最初に例に挙げた異言語コミュニケーションのように、隔たりを持ち、他者が他者として際立たされるからこそ公共圏の議論は活性化されるのである。