東浩紀と「幽霊の複数性」問題―松尾隆佑「確率・亡霊・唯一者――政治学的想像力のために」を読んで

かつてアリストテレスが名指された。名「アリストテレス」は、そこからさまざまな経路を通り配達される。それゆえ名「アリストテレス」はいまや、複数の経路を通過してきた複数の名の集合体である。必然的にそこではさまざまな齟齬が生じる。・・・・・・だからこそ、名「アリストテレス」にはつねに訂正可能性が取り憑く。固有名の単独性を構成し、かつ同時に脅かすその訂正可能性を、ここで前章の議論をうけ「幽霊」と呼ぶことができるだろう。名「アリストテレス」はつねに幽霊に、つまり配達過程で行方不明になってしまった諸々の「アリストテレス」に取り憑かれている。そしてそれら幽霊はネットワーク(伝達回路)の不完全性によって、様相性と複数性の徴のもとで現れる。(強調引用者)
――東浩紀存在論的、郵便的』新潮社、1998年、128頁――

東浩紀によると、ある固有名は、他の固有名と混同されたり、内容の異なる複数の名の集合体であったりする。ゆえに固有名Aは「AはBである」と言えるだけでなく、まったく逆に「AはBでない」とも言える。いや、むしろ、このような訂正可能性・複数性をもつことが固有名の単独性の証なのだ、と。
では、この複数性は何によって生まれるのか。東はそれを「郵便」の比喩によって説明する。とはいっても、それは浅田彰が言うような「投瓶通信」とは微妙に異なっている。届かなかった手紙が失われず、あるとき再来する。そのような空間の存在によって「幽霊」が生まれる、と東は言う。では「幽霊」とは何なのか。「ある回路と速度の選択の効果」(179頁)である。
出された手紙が迂遠な道を通ったり、届かなかったと思った手紙が意外なタイミングで届いたり、また自分の手元に帰ってきたりする。手紙は定められた宛先へ向かって送られる(この点において「投瓶通信」と異なる)が、その経路は「複数」存在するため、受け取り損ないが起こり、宛先は「君」から「君たち」へと「複数化」されるのである。
存在論的、郵便的』の取り上げる題材は多岐にわたるが、中心的なテーマを要約すると以上のようになるだろう。とはいえ、問題はそう単純ではない。東自身がこの本の冒頭においてデリダの「散種」という概念を、いまだ到来しない未来から「現前したことのない過去」を振り返ることによって可能となる、「テクストのなかに絶対的他者を見いだす技法」と要約していることと(28頁)、定められた宛先に向けられた手紙が結果として届き損なってしまうという東の「郵便」概念との間には、大きな溝があるのではないか。結局それは、一般的なコミュニケーション概念に撹乱性(というか、複数性)を付与しただけなのではないか。そのような疑問が浮かんでくる。やはり問題となるのは、東の使う「複数性」をどう考えるか、だろう。
このような視点は東批判の方法としては目新しいものではないが、先日webで公開された松尾隆佑「確率・亡霊・唯一者――政治学的想像力のために」は、著者がこれまで研究してきた利害関係論を背景に、明晰かつきわめて射程の長い議論をもって東の議論の問題点を指摘しているという点で注目に値する。
掲載告知:「確率・亡霊・唯一者」 - on the ground
著者の議論は決して東批判に留まるものではない。しかし、ここではその全体を紹介することは(能力的にも、時間的にも)できないので、上記の議論と関係する点だけ取り上げてみたい。


ロールズが「無知のヴェール」という言葉によって表現したように、「ありえたかもしれない自分」を想定することで、現在の社会状況・経済格差を超えた「正義」が可能となる。「人生の確率的な偶然性を前提にして、立場可換的な正義が可能になる」。とはいえ、松尾は東と異なり、今この状況を、等価的な複数の可能性のなかのひとつ、すなわち「単独的」なものであるとは考えない。むしろ、様々な可能性を排除した上に成り立つ「唯一的」なものであると考える。
松尾はこの違いを「哲学的想像力」と「政治学的想像力」の違いと整理するのだが、この区別が含意するのは、ひとつは「可能性の排除」にまつわる暴力の認識であり、もうひとつは排除される可能性の「他者性」の認識である、と言えるだろう。

今・此処に在ることの価値は、「他でありえた私」といった無数の幽霊たちを、まさに「他」でしかない、「自分ではないもの」として、独立に承認することに基づいている。「生まれ直し」の思想に現れているのは、こうした幽霊たちの存在を、同じ自分として横領的に詐取してはばからない傲岸な仕草にほかならない。
――松尾隆佑「確率・亡霊・唯一者――政治学的想像力のために」2010年、4頁――

この松尾の議論に引きつけて考えると、東の使う「複数性」という言葉が含意するのは、他者というよりはむしろ、差異を含んだ同一性、状況と状態は異なるが「同じ自分」である、ということになるだろう。
このような視点からは、東の次のような議論は、「幽霊」の他者性を無視したものであるとして批判されるだろう。

ぼくの考えでは、もともとマルチエンディング・ノベルゲームでは(そして本当は、ぼくたちが生きているこのリアルな世界においても)、「トゥルー」エンドなどというものはありえない。渚と汐を失った人生も、渚と汐と幸福な家庭を築き上げた人生も、ともに朋也にとっては真実でしかありえない。不幸な人生にも幸福な人生が可能性の芽としては畳み込まれており、またその逆もある、というのがマルチエンディング・ノベルゲームが提示する世界観なのであり、それは原理的に、「主人公が努力すれば幸せを摑むことができる」という通常の物語とは異質なものです。
したがって、CLANNAD AFTER STORYの最終2話で、朋也がある一方の人生から別の一方の人生に突然にジャンプしたとしても、それはまったく原作の世界観を損なわないとぼくは考えます。そして逆に、放映直後のエントリでも書いたように、あの最終話が単なるハッピーエンドだとも思わない。というのも、あの最終話を観たあとでも、ぼくたちは渚と汐が死んだ「別の世界」を忘れてはならないはずであり、そしてその忘却不可能性はアニメ版でもしっかり演出されていたと思うからです。汐はCLANNADでは、救われていると同時に救われていない。そんな両義性こそが、美少女ゲームの魅力の核心ではないでしょうか。(強調引用者)

汐は救われているのか - 東浩紀の渦状言論 はてな避難版

またアウシュヴィッツと記憶のアポリアの問題に関連して次のように述べていることも注目される。

ハンスが殺されたことが悲劇なのではない。むしろハンスでも誰でもよかったこと、つまりハンスが殺されなかったかも知れないことが悲劇なのだ。リオタールとボルタンスキーによる喪の作業は、固有名を絶対化することでその恐ろしさを避けている。
――東浩紀存在論的、郵便的』61頁――

ハンスが殺された世界、殺されなかった世界はどちらでもありえたが故に「複数的」であると東は述べているが、しかし、その中のひとつの可能性が選ばれることで、もうひとつの可能性は摘み取られている。デリダは「幽霊」の概念を用いることで、選ばれた可能性に対し、摘み取られた可能性の側が復讐を挑んでくる可能性を示唆している。しかし東は、それが複数的であると述べることで、幽霊の復讐を回避しようとする。なぜなら複数的なものの間に序列はないからだ。「ハンスが殺されなかったかも知れないことが悲劇なのだ」。こういうことで、東は何を言おうとしているのだろう?「安全に怖がっている」だけではないか。そんな疑問が出てくる。
先に引用した東のCLANNAD評にも同様の、いや、おそらくよりわかりやすい問題点がある。ここで東は、表面的には「救われた渚と汐」に対する「救われなかった渚と汐」の他者性を承認しているように見える。しかし、その一方で東は、その両者を統合する「メタ物語」としての『CLANNAD』の存在を決して否定しない。この「メタ物語」を前提とする限り、私が以前別の記事で指摘した、「救われなかった渚と汐」を経過することでしか「救われた渚と汐」という「エンディング」にたどり着くことができないという、「脱構築的漸進主義が必然的に生み出す「生と死のエコノミー」」を否定することはできないだろう。しかし、東はそのエコノミーの結果を「汐はCLANNADでは、救われていると同時に救われていない」と、両者を同一視することで無化しようとするのである。
東自身は「マルチエンディング・ノベルゲーム」と「ぼくたちが生きているこのリアルな世界」が「「トゥルー」エンドなどというものはありえない」点で同一であると述べているわけだが、無論、その両者を同一視することはできない。しかし、とりあえずここでは、東のノベルゲーム批評での「失われた可能性」への憐憫が、アウシュヴィッツの亡霊に対する「安全な恐がり」と連続していることだけを指摘しておこう。


最後にもう一度松尾論文の話に戻ろう。

東さんは否定神学を批判したけれども、それは超越性の見出し方を批判したのであって、超越性を捨て去ったわけではない。否定神学では現実に対する規制的位置に超越性を見出すが、デリダ=東的な誤配哲学ではコミュニケーションのズレに超越性が見出される。神をどこに見るかの違いであって、超越性による世界支持の発想は捨てられていない。

stakeholder democracyへの道半ば - on the ground

松尾はこのように述べているが、中野昌宏『貨幣と精神』や竹田青嗣『言語的思考へ』で既に指摘されているように、東の議論が「否定神学」的ではないかというと、かなり怪しい。が、そのことは松尾の構想する「超越性への依存から手を切り、違うものを、強いて言えば世俗的争いの中で流される血や届かなかった声などを想像する――想像しながら踏み潰していく――べきもの」である「stakeholder democracy」の価値をいささかも減ずるものではない。というか、そもそも否定神学的でない理論など存在しない。ある特定の立場にコミットし、特定の前提を受け入れることなしには理論を立ち上げることはできない。その根拠を自ら問い、またその前提を受け入れることでいかなるメリットがあるのかを人々に説明することができれば、「否定神学」であることは問題にならない。

そもそも複数的なものを複数的に捉えることは、理論の仕事ではない。理論の仕事は、複数的なものを一貫したパースペクティヴで捉えることである。見渡せば差異はどこにでも・いくらでも見つかる。理論としては、それらを各個個別的に記述したところでしかたがないではないか。・・・・・・東の言うデリダ脱構築は、現実をではなく理論を脱中心化しようとすること、したがって理論に関してゲーデル脱構築のコンスタティヴな内容をただ言明すること(「究極の真理、究極の理論はない」)に等しい、かえって脱構築とは呼びえないものであった。そのような努力をしなくとも、いかなる理論も多かれ少なかれ(広義の)否定神学的ではなければならず、否定神学的でない理論など考えられないという意味で、理論はつねに脱中心化されているのである。
――中野昌宏『貨幣と精神』ナカニシヤ出版、2006年、124頁――

ひとつ危惧されるのは、他者たる「幽霊」と向き合い、彼らの声に耳を傾けよとするデリダ的な「正義」が、通俗的な「ヒューマニズム」へと堕していくことである。「正義」が希求される一方、もう一方でその「正義」がつねに未達成なものに留まるという「政治」の不可避性が強調される。誰に向けて書くのかという戦略が問われるところだろう。
デリダによると、法が脱構築しうるのは、われわれがある無限な「正義の理念」をもつためである。これに対し竹田青嗣は、デリダが一方では「法」を国家の暴力によってしか担保されない正当化不可能なものであるから脱構築可能であるとし、もう一方では「正義」を規則に還元されない規定不可能なものであるから脱構築不可能なものであるとするという、同じ事実(絶対的な根拠付けの不可能性)への解釈の変更を行っていると批判する(『言語的思考の彼方へ』)。
このときデリダラカンを批判しつつ、実はラカンと類似した考え方をとっている。我々の社会は、ある「語り得ない中心」によって構造化されている、という考え方である。構造の内側にありながら、その外部に存在する価値を指し示す、そのような中心である(貨幣を想像するとわかりやすい。貨幣は交換用具として使われるという点で経済構造の内側にある。その一方で、貨幣はその材質に還元されない、ある価値を指し示している。それは実体としては存在しないのだが)。つまり、ポストモダンは自らの思想の根拠を、ポジティブな形で語ることができないのだ。
このことが、仲正昌樹の指摘する「ポストモダン左旋回」に関わってくる(『集中講義!日本の現代思想』)。ポストモダンの思想は自らの思想の根拠を持たない代わりに、どのような思想でも批判することができる。それゆえに、ある種の恣意性が表れるのだ。たとえばジュディス・バトラー『生のあやうさ』は「他者」をキーワードとしたポストモダニズムによる共同性論であるが、ネイション批判では非常に論理的であったのが、何かを肯定的に語ろうとした瞬間ヒューマニズムになってしまう。脱構築を用いて共同体(ネイション、共産主義国民国家etc)批判を展開するジャン=リュック・ナンシーもまた、あらゆる共同体の中に脱構築の契機が潜んでいることを強調する。そして彼は共通性をもとにした共同体に、その脱構築を通した共通性に還元されない共同体、差異の分有によって生じる共同体(無為の共同体)を対置させる。しかし、差異は探せばいくらでも・どこにでも存在する。それが共同性へと転化する条件は何か?という問題に対し、ナンシーは「解釈共同体」(ガダマー的な)を導入するのである。人々の間で多くのものは共有され、微少な差異だけが「解釈」を通して共同性へと転化されるのをまっている。ナンシーの提起する新しい共同体概念が、一方では彼の想定する保守的な共同体観を擁護するものであることが、これで理解できるだろう。
それと、「現にある自分」と「ありえたかもしれない自分」を同一視する諸運動については、松尾自身が以前指摘した社会の個人化と個人の断片化の複雑な絡み合いと考えることもできるだろう。その場合、果たしてデリダ的「正義」を強調するだけで有効な批判たり得るのか、とも思う。
何にせよ、射程の長い理論であるだけに、私自身も大いに刺激を受けた。これからどのような展開を見せるのか、制度論としてどのような形で具体化されるのか、今後の活動に注視したい。