社会/「社会」/社会的なもの

『社会思想史研究』の最新号で「<社会的なもの>の概念 再考」という特集が組まれていたので、その中の何本かの論文を読みました。「社会的なもの」って最近よく耳にしますが、よくわからない。出所はよくわかりませんが、広めたのは市野川容孝『社会』でしょう。この中で市野川は「社会的なもの」を、社会における不平等の認識と、その是正へと向かう規範性、と定義しました。単なる分析概念ではなく、規範的概念なのだ、と。しかし、それが社会科学の対象である「社会」とどう関わるのか、「社会的なもの」って結局「社会民主主義」のことなのか、色々疑問は残ります。『社会思想史研究』の特集のなかでは、森政稔氏が、社会/社会的なもの/社会民主主義はそれぞれ違った文脈から出てきたものであり切り分けて理解すべきだと述べていますが、基本的には私も賛成です。では、どう区別するか。
まず社会について。これは「全時代を通して存在する人間の結合体」としての意味と、「社会科学の対象として意識的に構成されたもの」という2つの意味があります。とりあえず前者を社会、後者を「社会」と呼んでおきましょう。社会的なものについては、森氏が言うように問題的な文脈で言及されることが多いように思われます。すなわち「社会」が構成されるなかで貧困者の集団や道徳的退廃の問題が見いだされるのですが、それを眼差す主体が前景化されるときに「社会的なもの」が現れるのでしょう。
話を日本に限定すると、大正時代において「社会の発見」があった、と言われています。しかし明治時代においても「社会問題」「社会小説」「社会進化論」といった言葉はある。これをどう考えるか。
暫定的な回答としては、明治時代にも社会はあったが「社会」はなかった。明治の社会は大規模な出来事・結社・国民といった人間集団の言い換えであった。それに対し、大正の「社会」はまず社会科学の対象として与えられるため、必ずしも内容を持たない。正確には、まず「社会」という名付けがあり、その後に内容は社会科学研究を通して構成される。その中に「社会的なもの」も含まれる。
「社会問題」という言葉が明治期から存在する以上、「社会的なもの」も明治から存在するのではないかとも考えられるが、このときの「社会問題」は具体的な集団的貧困がそのように名指されるにすぎない。大正期において「社会」は事象の名ではなく、原因となる。「社会」があるから貧困が起こるのだ、と。そこに貧困をなくしたいという実践的な関心が加わることにより、「社会」は貧困の原因であると同時に解決主体であると見なす「社会的なもの」が生まれてくる。
だいたいこんな所ではないかと思います。以下、twitterで書いた思いつき。


このとき語られる「社会」は、具体的内容を欠いた、しかしそのことによって一切の原因となるような、「シニフィエなきシニフィアン」とか、だいたいそんなものだ。「社会」は不在の中心によって構造化されている。大正期の知性は、そのことに気づいていた。というか、新カント主義の思考法が導入されたことによって「社会」は見いだされ、説明された。左右田喜一郎はその空虚な中心を「文化」と呼び、田辺元は「類」と呼び、福田徳三は「厚生」と呼んだ。
空虚な中心によって全体は構造化される、というより、全体という観念が与えられるというべきか。そういう考えを左右田が導入し、田辺もこれを引き継いだ。いわゆる文化主義であるが、このときの「文化」は、あくまで個人の次元において関わるものであり、共同体の次元、すなわち「日本文化」と同一視されてはならない。この点においてより自覚的であったのは、おそらく田辺元だ。「種の論理」という、結果としては戦争賛美に使われたこの理論は、「類」という普遍性を志向することで事後的に「種」(共同体)が生まれるという構造をもっている。「類」を志向していれば同じ「種」でありうる。それは植民地支配の現実を合理化する理論であったが、類を志向する上で種が障害となるならば、種から離脱することも容認されている。「君、君たらざれば、臣、臣たらず」というやつ。で、ここから田辺元丸山真男の連続性という観点が出てくる。『忠誠と反逆』の反逆論と、種の論理は結構似ている。違うのは、丸山が共同体を本質化するのに対し、田辺が共同体を「類」への志向によって事後的に生まれると考える点。植民地支配の有無によって生じた差。
左右田−田辺−丸山というこのラインにたいし、社会を構造化する空虚な中心を何らかの方法で把握し、それを善導しようとする社会政策学のラインもある。これも左右田から出発し、師匠の福田が左右田を批判しながら統計学を導入し、厚生省系の官僚に引き継がれていく。とりあえずこの2つのラインが、大正−昭和初期の日本の「社会」科学における知的系譜であろう、と。どちらも出発点は左右田に求められる。どんだけ過大評価だよという感じだが、左右田の著作のインパクトが社会科学全般に及んでいたことは、同時代の証言でも確認できる。土田杏村は昭和の初めに、左右田の『経済哲学の諸問題』について「この本が出て以降、どれだけ内容が豊富でも、左右田のようなスタイルでないと厳密な議論とは見なされなくなった」と書いている。新カント主義の再評価がこれから日本でも進んでいくのではないだろうか。
カントの場合、「物自体」にそれほど深い意味はない。単なる認識の限界。それを祭り上げ、たとえばレヴィナスの「他者」であったりデリダの「正義」であったりといった、空虚な(しかしそれゆえに重要な)シニフィアンとしての意味を与えたのは、新カント主義ではないだろうか。