岡真理『記憶/物語』

記憶/物語 (思考のフロンティア)

記憶/物語 (思考のフロンティア)

記憶とは本人が所有する(だけの)ものではなくて、フラッシュバックのように制御不能な、記憶そのものが主体になるようなものじゃないの?というのが本書の発想の根底にある。本人であったとしてもそれを正確に表現できるわけではないし、過去から自由になれるわけでもない(それこそフラッシュバックのように、辛い記憶が現在のものとして現れることもある)。また、暴力的な記憶(慰安婦体験など)の本質が「言葉で言い尽くせない」点にある以上、それを他者と分有することにはある種の不可能性が付きまとうことになる。
ところで著者が「共有」ではなく「分有」としたのは何故か。この「分有」概念について本書の中では十分な説明がされていないのだが、「共有」の均質性よりは各人の異なる解釈によって絶えず読み替えられる不確定性を重視した概念である。『研究する意味』収録の文章ではその意義がよりわかりやすく書かれているので、そちらから引用してみよう。

私が「分有」という言葉を使うのは、「共有」と言ってしまうと、すべてを同じように「共有」するかのような印象を与えるからです。(中略)相手と同じ立場に立つことはできない、相手が感じたように自分も感じることが決して出来ない情況のなかで――「筆舌に尽しがたい」「想像を絶する」といった表現が指し示しているのはそのような情況のはずです――、それdめおなお、相手の痛みや経験を自分の立場からできるかぎり想像すること、自分の立場から相手の痛みを分ち持つこと、それが「分有」です。「自分の立場から」ということに私がこだわるのは、そこには必ず、私には私の痛みが、たとえば「加害」の歴史性を書き込まれた私固有の痛みもあまたあるはずだからです。
―岡真理「世界の現実に批判的に介入する文学の<不/可能性>とは何か」『研究する意味』―

では、どうすれば我々は彼女たちの記憶を分有できるのか?そこに語り尽せないものがあるということ、そのような出来事そのものを提示するしかないだろう、というのが著者の考えである。そのため、戦争の死や大量虐殺を「〜のための死」として共有しようとをする文学作品や映画が批判の対象となる。アウシュビッツを体験した多くの者が語るように、あの場所では「人が無意味に死ぬ」という不条理が現実であった。それに対して「いかなる暴虐も魂の尊厳を奪えなかった」というストーリィを与えるのは、いったい誰のためなのか。それは、「理由のない死」によって私たちを不安にさせないためではないか。私たちがアウシュビッツの記憶を分有するためでは、決してない。そうであるならば、アウシュビッツを生き延びたものが「収容所で殺されたものに代わってよりよく生きる使命がある」と言うことも批判しなければならない。収容所で殺されたものたちは「使命」がないから死んだのか。そうではない。生き残ったことにも死んだことにも理由はないのだ。
理由のない死、理不尽な暴力の記憶をどうやって分有するのか?物語に回収してはいけない。可能性は物語から外れたところ、出来事それ自体が語るような領域にある、と著者は言う。例えば弾薬も底を突いた日本兵が、敵を驚かすために英語で「ヘル・ウィズ・ベーブ・ルース」と叫びながら突撃した話。これが「ヘル・ウィズ・ルーズベルト」なら不思議はなかった。けれど、何故か(おそらく日本兵にもわからない)「ベーブ・ルース」であることで、アメリカ兵の記憶の中で物語化されることなく残り続けた。
「共有」ではなく「分有」すること。共有したい願望をぐっとこらえて、各自のやり方で、自分自身の痕跡を刻みながら解釈すること。そのためのきっかけが、物語化されない記憶なのだろう。と、こんなところかな。