『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』についての雑感

神戸守監督作品ときいて、『エルフェンリート』が好きで好きでしかたない自分は非常に期待していたのですが、イマイチでした……。
序盤はそれほど悪くないと思ったんですけどね。最果ての小隊、風景画のような街、水の底に沈む巨大な遺跡といった設定には「何が起こるのだろう」と期待させられましたし、演出も叙情的で見ごたえがあり、作画のレベルも高い。ただ、シナリオが良くないですね、やはり。田舎の町の平凡とはいえない日常を描いた序盤は悪くないのですが、終盤に入って話のオチを模索しはじめる辺りから、シリアスな設定と楽天的なキャラクタ造形との不調和が目立ってきます。
第11話では敵国の兵士を捕虜にし、言葉の通じない彼女とコミュニケーションを取らなくてはならない状況が描かれるわけですが、ここでは言葉が通じないことが、乗り越えるべき単なる障害でしかない。次の最終話もそうですね。通訳が入ったり、あるいは音楽という非言語的なコミュニケーションの手段が手に入れば、それだけで心が通じ合ってしまう。言語の壁が強調されることで、逆に同一言語内での意思疎通の確実性が保障されてしまう。つまり「話せばわかる」のです。しかし、言葉が通じないというのはもっと本質的な問題ではないでしょうか。
また、一部で揶揄されているように、シナリオの組み立てが『マクロスF』と同じなんですよね(シリーズ構成が同じなのは知っています)。言葉の通じない敵がいるのだけど、音楽を通して意思疎通が可能になると、実は敵ではなかったことがわかる。そして「本当の敵」が身内にいる……という。ありふれた話ですけど、これをやられると一気に嘘くさくなります。「いままで騙されていたけど、今は真実に目覚めた!」という単純さ。どこかに「真の敵」がいないと戦えないのか?と。
あと、OPは『エルフェンリート』と同じくクリムトの絵画がモチーフになっていますが、あまりキャラクタと合っていないように感じられました。もちろん神戸守という名前を連想させるには十分で、そういう「作家性」のようなものを売りにできるのだな、と別の意味で感心させられましたが。作画MADのように、本来は共同制作であるはずのアニメから特定の固有名を抽出し、名前をひとり歩きさせていくような状況が存在するわけで、それを積極的に引き受けていくべきだというのもひとつの見識ではないかと思います(山本寛がその典型)。