カレル・チャベック『山椒魚戦争』

山椒魚戦争 (岩波文庫)

山椒魚戦争 (岩波文庫)

ある男が、人間並みに知能が発達した山椒魚を見つけ、水中の工事現場で働かせるために繁殖させたところ、いつのまにか人間を滅ぼすくらいに進化してしまったという話。「まえがき」や訳者の解説で詳しく書かれていますが、それらがなかったとしても作品の主題は極めてわかりやすいですね。ひとつは「人間は自らが生み出したものによって滅ぼされる」という科学技術への風刺。もうひとつは、いよいよ山椒魚が人間を滅ぼそうとするその時になっても、人間同士の争いをやめようとしない国家本位の考え方(ナショナリズム)への批判。最終章では突然「作者」が登場し、人間を滅ぼす山椒魚もまた、人間と同じように山椒魚同士で殺し合い、滅んでしまうことが予言されています。滅びは運命であり、避けられない。「それからのことは、ぼくにも分からないよ」。
こういった作者の悲観的な見通しを理解するには、やはり作者が置かれていた時代背景のことを考えざるを得ないでしょう。岩波文庫版の解説はその辺が行き届いていたと思います。これは僕の想像ですが、山椒魚全体主義のメタファーなのでしょう。『マクロスF』に出てくるヴァジュラみたいな生物……と言えば一部の人は理解できるもしれません。物語の最後は生息域ごとに編成された「山椒魚国家」同士が戦いあって山椒魚が滅んでしまうので、「ソ連VSドイツ」みたいな全体主義国家同士の戦争に対する風刺の意味も込められているのでしょう。
山椒魚戦争』が一種の風刺作品であることは確かですが、作者であるチャベックの政治に対する認識の深さが、その風刺に説得力を与えています。単純な現状批判ではなく、具体的な政治を動かす制度をきちんと理解した上で書いているんだなということが、地の文の端々から伝わってくるのです。例えば山椒魚がまだ人間の「所有物」であったころ、山椒魚が人を傷つけるような事件を起こし、誰がそれに責任を取るんだという議論が起こるくだり。
「知能がある上、かなり責任のある仕事をさせられている山椒魚は、不注意その他あらゆる方法で、現行の法律に違反する可能性がある。山椒魚が罪を犯したからといって、その所有者が、いちいち責任を問われてはたまらない。そんな危険があるようでは、山椒魚の労働力を利用する分野における個人の企業欲に、水をかけることは、明らかである」
山椒魚を外国移民として扱うことも、もちろんできる。しかし、そういう場合、国家は山椒魚に対して、すべての文明国(英国は例外)で行われているように、動員と戦争の場合、一定の義務を課すことはできないだろう」
こうして人間が山椒魚に権利と武器を与える一方、「山椒魚はなんの要求も出してこないで、生産性と注文を増大させるばかりである」。山椒魚は最終的に人間と敵対しますが、それを山椒魚の問題としてではなく、不可避的な政治の帰結であることが強調されています。実際、文庫本で400頁くらいあるのですが、そのうちの350頁の間、山椒魚は徹底して受動的に描かれているわけです。
そして最終章の表題は「作者が自問自答する」。作者と、「せめて人類に救済を与えてやれないか」と迫る作者の内なる声との対話ですが、この章があるためにかえって解釈が難しくなっているような気もします。ここで出てくる「作者」と、それまでの「語り手」は一致しないんですよね。では「作者」って何者?という疑問が。