「○○は俺の嫁」に見るオタク文化と視線の関係

アニメでも映画でもエロゲでも、映像作品に描かれる世界は単なる現実の模写ではなく、僕たちが現実をどう見ているのかを表す「視線」をその中に含んでいる、という話を。
写真を取ったりビデオカメラを回したりするときのことを思い出してください。僕たちは目に映る世界の一部をフレームに収め、固定するわけですが、出来上がった写真や映像はカメラを通して一度見た景色であるにも関わらず、それは撮影者本人にも新鮮な驚きを与えてくれます。
自分が物をどうやって見ているのか(つまり視線の向け方)を自覚することがいかに難しいか、ということであり、そのため写真や映像の価値というのは、何をうつしたかだけでなく、自覚することが難しい「視線」を見やすい形に固定することにあると言えるでしょう。
そのため、映像作品を読み解く上で「作品に何が描かれているか」を探求することだけでなく(無論それも重要ですが)、描かれているものを「どう見ているのか」を知ることが大切です。
『らき☆すた』第6話のお風呂シーンについて - tukinohaの絶対ブログ領域
上の記事で僕は

第6話お風呂場シーンでは映像を撮ること/見ることに付随する「覗き」の性質が上手く利用されていたという話でした。

と書きましたが、『らき☆すた』のような「ありふれた内容をどう描くか」に力点の置かれる作品では特に「視線」の持つ意味は大きくなります。具体的には、アングル、構図。これらの要素を抜きにして内容だけを語ろうとしても上手くいかないだろう、と僕は思います。
例えば「○○は俺の嫁」という言い回しがありますよね。あれは映像作品特有の「見られずに見る」一方的な視線が日常をエロティックなものに変えていく暴力性を端的に表現したものだと思うのですが、どうでしょうか。

ミュージック・ホールの半裸体の群舞とは全く対照的に、ストリップの演技者は、孤独の空間に押し込められる。実存哲学風に言えば、ストリップ・ショーとは、観客の視線によって、女を物体に変える性的欲望のメカニズムを代行しているのだ。
「性的欲望は、相手の身体から、その衣服とともにその運動をも取り去って、この身体を単なる肉体(物体)として存在させようとする一つの試みである」とサルトルが明快に述べているが、このサディスティックな視線の欲望は、ストリップの観客ひとりひとりの心の奥に存在し、誰もがストリッパーの想像上の相手役(つまりサディスト)となっているのである。
  −澁澤龍彦『エロティシズム』−

いずれにせよ、見るということは、所有することである。
  −同上−

澁澤は「セクシャリティ」と「エロティシズム」を厳密に区別しているように、エロティシズムを生殖から疎外された、ある意味「異常な」ものとして位置付けました。異常なもの以外にはあり得ないのだ、と。そうだとすれば、自分に話しかけることもなく、ただ一方的に見るだけの相手を「嫁」と呼ぶ行為はそれほど変わったことではないという気もします。